ハツコ エンドウ 遠藤彬社長インタビュー <<前編>>

2017.10.05
本データ_32A3297_revised

112年の歴史を持つ銀座の美容・婚礼のブランド「ハツコ エンドウ」。今回はその社長であり、四代目遠藤波津子の次男である、遠藤彬氏にお話を伺いました。曽祖母にあたる初代遠藤波津子は創業当時すでに42歳、女性が仕事をするのは例外中の例外であった時代に、驚くべき先見性と行動力を持った、明治の女性。それが「ハツコ エンドウ」のルーツでした。

明治38年に現在の銀座七丁目に理容館を開業し、日本初のフェイシャルトリートメントとなる「美顔術」を提唱した初代遠藤波津子。洋行した夫から欧米でおこなわれているスキンケアについての話を聞き、当時外国人居留地のあった横浜で、欧米のエステティック技術(ハイジェニックフェイシャルカルチャー)を学び、いまで言う「エステティック」「ヘアメイク」「着付」などを行う総合美容サロンを銀座で創業したそうです。

街並み

 理容館

着付け


― その当時女性が働くのは珍しかったと思うのですが、初代はどんな女性だったと聞いていますか?

職業婦人の草分け的な女性だったようですね。髪結いという職業にも関わらず、裏口から入ることはせず、正面玄関から入っていくということをした気概がある人だったようです。初代のもとには、大学出や女学校出の良家の子女から、没落した士族の奥さまなどさまざまな事情の人々が弟子入りしてきて、女性が自立することに理解を持っていた初代は、積極的に迎え入れたと聞いています。

 

― また歌舞伎のように世襲で名前を継いでいく、のも珍しいですが何か理由があるのでしょうか?

女性の仕事だったので、初代の長男の嫁が二代目を世襲しました。その二代目が早く亡くなったということもあり、三代目は初代の高弟の中から選ばれた三浦京子という人です。三浦京子の夫は銀行家で、夫の父は第13代東京府知事を経て、宮中顧問官にまでなった人でした。彼女は、元々は初代の顧客であったのですが夫と死別した後、自立の道を選び、初代に弟子入り、そして、才能が認められて遠藤波津子を襲名したのです。三代目の娘が、二代目の長男と結婚して四代目を襲名した私の母になります。

 

― 昭和34年の天皇・皇后両陛下のご成婚に際し、美智子様のお支度を担当されたのは、どういうきっかけだったのですか?

清宮様(現・島津貴子様)が日本橋のお店をご利用くださっていたこと、島津様とのご婚礼でお支度をさせていただいたこと、美智子様のお母様(正田冨美子様)が銀座店のお客様でご結婚の際もお支度をさせて頂いていたことなどがきっかけだったと思います。ご成婚の際の美智子さまのお支度は三代目と襲名間もない私の母の四代目で努めさせて頂きました。今でも大変名誉なことだと思っています。

 

― 四代目はとても素敵な方だったと聞いていますが、どういういい思い出がありますか?

母は、よくお客様から個人的な相談を受けたりもしていたようでしたが、そのことを一切身内にも誰にも言わない人でした。そのような人柄が顧客の方々から信頼される理由でもあったのかと思います。また、懐の深い、とても度量の大きい人でした。父はとても芸術家肌で神経質な人だったのですが、二人はとても仲が良く、父にとっては最高の奥さんだったと思います。とても明るく理想的な母でした。また、意外かと思われるかもしれませんが、私を初めて銀行に連れて行ってくれたのは母なんですよ。経営の全ては母に教えてもらいました。

<<後編に続く>>

 

<プロフィール>

遠藤波津子グループ
代表取締役社長
遠藤 彬(えんどう あきら)

1943年生まれ。四代目遠藤波津子の次男として東京に生まれる。
慶応大学商学部卒業後、札幌テレビ放送 株式会社に入社。1973年、株式会社遠藤波津子美容室入社、常務取締役に就任。1993年、株式会社遠藤波津子美容室 代表取締役社長、株式会社遠藤波津子きものさろん(現 株式会社ハツコ  エンドウ ウエディングス)代表取締役社長就任、現在に至る。
1980年代、婚礼衣装が洋装に変わるのに伴い、銀座に「遠藤波津子ウエディング・コレクション」を開店し、常に数百着のドレスが用意されたショールームで、ゆっくりと衣装が選べるスタイルを確立。また1990年代には日本の老舗ホテルとの関係を維持しながらも、外資系ホテルへの出店をスタート。婚礼衣装以外にも、一般美容室、婚礼美容室、エステティックなど多様なニーズに対応するべく事業を拡大した。
また、ライフワークとして銀座通連合会の副理事長、理事長及び全銀座会代表幹事を歴任し、現在は副会長。「銀座街づくり会議」、「銀座デザイン協議会」を設立し、銀座の街の様々な活動に日々携わっている。
2020年の東京オリンピックに向けて設立された「全銀座オリンピック・パラリンピック対応委員会」委員長を兼任。