信玄の躑躅ヶ崎館と要害山城 :「美しき城」 vol.25 萩原さちこ

2016.07.18

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武田氏3代の居城、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)

平打ちの麺に野菜をたっぷり入れ、味噌で煮込んだ甲州の郷土料理「ほうとう」。戦国大名の武田信玄が陣中食として考案したものと伝わります。手間がかからず消化も良く栄養価も高いことから、野戦食として用いられたようです。信玄自ら伝家の宝刀で麺を細長く切ったことから「宝刀」の名がついた、という説もあります。

武田家3代(信虎・信玄・勝頼)が本拠地としたのが、甲府駅から車で5分ほどの躑躅ヶ崎館(武田氏館)です。「甲府」の名は、甲斐の府中という意味。信玄の父・信虎が石和からこの地に居所を移したときに命名したといわれます。

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武田から織田、徳川、豊臣の支配下へ

城というと天守や石垣を連想するものですから、「信玄公の城ならばさぞかし立派な天守があったに違いない」と期待が膨らみます。ところが、訪れても現在は武田神社が残るばかりで、あまり城らしさは感じられません。それもそのはず、ここはもともと甲斐国守護であった武田氏の居館だったのです。

よく見ると、四方が土塁と呼ばれる土の壁でがっちりと囲まれています。裏手の堀の規模も、かなりのものです。200メートル四方の中心部は、武田氏の生活の場であり政庁でした。武田氏の勢力拡大とともに拡張され、堀や土塁などが増築されました。

1582年(天正9)に武田氏が滅亡すると、織田・徳川・豊臣方の家臣によって城は整備され、甲斐の統治拠点となります。大手口(正面玄関)からは、大手門を守るための石塁の下から武田氏時代のものとみられる三日月堀が発見されています。 復元されている石塁は、武田氏滅亡後に徳川氏や豊臣氏の家臣によって築かれたもので、領主交代によって、武田氏時代の堀は人為的に埋め戻されて破却されたと考えられています。神社の敷地内には天守台が残りますが、これも徳川時代に築かれたものです(立ち入り禁止区域)。

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