大垣城と化石:「美しき城」 vol.33 萩原さちこ

2016.09.12

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化石が散りばめられた美しい石垣

大垣城の美しさを際立たせているのは、真っ白な石垣です。近づいてみると、細い線や細かな模様が入っているのがわかるでしょう。実は、大垣城の石垣には化石が潜んでいます。

大垣城には黒っぽい砂岩と、白や灰色の石灰岩が用いられています。石灰岩は海に生きていた生物が堆積して岩石になったもの。ですから、石灰岩には化石が模様のように残っているのです。大垣城の石垣には、「シカマイア」「ベレロフォン」「フリズナ」「ウミユリ」「サンゴ」などの化石を見つけることができます。

大垣城の石垣が運ばれたのは、城の4キロほど北西にある金生山です。金生山は全山が石灰岩でできた海抜200メートルほどの山で、現在も石灰岩の採掘が行われている歴史ある場所です。大垣城の石垣に使われた石材は、金生山の南東の麓にある石引神社で切り出され、そこから南東500メートルほどの赤坂湊へと運ばれ、舟で杭瀬川を下り、塩田橋付近から城下に入りました。史料によれば、大垣城の築城時には杭瀬川の堤に約3メートル四方の大樋があり、舟ごと通り抜けができたよう。現在でも水門があり、大垣輪中の排水口になっています。ここから久瀬川通りの水路を使えば、そのまま内堀に入って城内へと運搬できました。船町川の途中にある切石町で一度陸揚げし、石を成形してから運んだという説もあります。

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関ヶ原合戦では石田三成も入城

歴史的にも名を残す城です。1600(慶長5)年の関ヶ原合戦では西軍の本陣となり、石田三成も入城しました。三成は籠城戦を想定していたものの、徳川家康の戦略により関ヶ原へ討って出たとされます。豊臣秀吉が「かなめの城、大柿の城」と語り、織田信長や秀吉の一門が歴代の城主を務めるなど、関ヶ原合戦以前から重要な城でした。天守最上階からは、関ヶ原合戦の前哨戦においてわずか1日で陥落してしまった岐阜城、関ヶ原合戦で小早川秀秋が陣を置いた松尾山城も見えます。

大垣城の天守は関ヶ原合戦の絵図にもよく描かれ、いかに象徴的な存在だったかがわかります。1596(慶長元)年に伊藤祐盛が築いた三重天守は、元和6(1620)年に松平忠良が四重四階へと改築。天守は昭和に入っても現存していましたが、前年ながら1945(昭和20)年7月の空襲で焼失してしまいました。史料や昭和初期に撮影された古写真など、それらの資料をもとに1959(昭和34)年に復元されています。

 

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