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「美しき城」 vol.54

鹿児島城と外城制:城郭キュレーター 萩原さちこ

2017.02.13

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77万石らしからぬ、シンプルな城

鹿児島城は、関ヶ原合戦後の1601(慶長6)年に島津家久により築かれた城です。幕末まで島津氏の居城となりました。

城山山頂の上山城と山麓の居館から構成される城でしたが、1615(元和元)年に江戸幕府より一国一城令が公布されると、山麓の居館だけが残されました。構造は極めてシンプルで、方形の本丸と二の丸を配置し、本丸の周囲に水堀をめぐらせるのみ。城というより屋形の形式です。77万石を誇った島津氏でしたが、幕府への配慮からか天守は存在しませんでした。石垣や堀、御楼門(大手門)に架かる石橋が現存しています。

rd1700_kagoshima-2rd1700_kagoshima-3rd1700_kagoshima-4薩摩藩独自の地方支配制度「外城制」とは?

一国一城令により、全国の城は本城を残し、そのほかの支城は廃城とされました。なかには1か国に2城の存続が認められたケースもありますが、いずれも特例です。2か国を領有する大大名の場合は1か国に1城ずつの存続が許されたものの、関ヶ原合戦で西軍に属した外様大名である島津氏は、薩摩と大隅の2か国を領有しながら、鹿児島城のみしか認められませんでした。

この江戸幕府の政策をかいくぐり、領国の防衛力と独立性を維持する薩摩藩の秘策が、「外城制」と呼ばれる地方支配制度です。

「外城」とは、領内各所に置かれた政治・経済・文化・軍事の中心となる「麓(ふもと)」と呼ばれる集落のこと。領国内を区分けして地頭や武士を置き、政治や軍事をそれぞれ行わせるシステムです。

つまり、実質的にそれまでの支城と同じように機能します。麓には、地頭仮屋という政庁のようなものも構えられていました。外城は戦国時代に使われた山城の山麓に置かれるケースが多く、いざという時は詰城として活用できました。軍事面だけでなく流通・経済面からも交通の要所に築かれ、その地域が発展する要因ともなりました。

領国内には、計113の外城が形成されていたといわれます。外城に対して、藩主のいる鹿児島城は「内城」と称されました。本城と支城との関係と同じように、内城と外城とが支配体制を確立していたのです。この外城制によって、薩摩藩は独自性・独立性を保っていたと考えられています。

 

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