旅行

「美しき城」 vol.57

伊賀上野城と藤堂高虎:城郭キュレーター 萩原さちこ

2017.03.06

igaueno-1 copy-min

築城名人といわれる藤堂高虎

築城の名手として名高い藤堂高虎は、江戸時代の城を開発した人物といっても過言ではありません。織田信長や豊臣秀吉が築いた「徹底的に戦い抜く城」から、「無駄を省いた機能的な城」へとシフトチェンジ。

省エネで省コスト、かつ短期間で築ける新しい城は徳川家康の意向に沿い、徳川幕府系の城で採用され、全国の諸大名が工事を請け負う天下普請により全国に広まったと考えられています。

高虎にとって、家康は7人目の主君です。外様大名(新たに徳川家の支配下に組み込まれた大名)を厳重に警戒し格付けを行っていた家康は、基本的に外様大名を幕閣の要職に就けたり、戦略的要地に置くことはありませんでした。

ところが高虎は、もともとは傍系にあたる外様大名でありながら家康からかなり信頼され、腹心に出世した希な存在です。主君を変えながら戦乱の世を行き抜いた逞しい武将であるだけでなく、それだけの信頼を得る有能な実力者でした。

関ヶ原合戦直後にはすでに家康から厚い信頼を得ていたようで、膳所城(滋賀県大津市)の縄張を担当しています。膳所城は京を押さえる重要な拠点で、天下普請で築かれた城の第1号。

当然ながら、城の設計を任せることは城の構造が筒抜けになる危険性を伴うため、外様大名が請け負うことは常識的に異質です。それほどまでに、高虎の技術力は家康に評価され、特別な存在となっていたのでしょう。

igaueno-2 copy-minigaueno-3 copy-min
守る城から攻める城への転換

伊賀上野城は、藤堂高虎が1608(慶長13)年に22万石で入り築いた城です。大きな特徴は2つあります。ひとつは、城の向きです。伊賀上野城は、膳所城築城にはじまる家康による豊臣包囲網のひとつとして築かれた城。よって、当然ながら大坂方面への牽制が強く意識されています。

伊賀上野城は1585(天正13)年に筒井定次が築いた前身の城を大改修しているのですが、大坂を防御するためにあった筒井氏時代の城を、大坂との決戦に備える城として大改修しています。高虎は本丸を西に拡張し、高石垣をめぐらせて南を大手に変更。城内に筒井時代の城の一部が残り、2つの城が共存しているのはそのためです。

 

次ページ《全国屈指の高石垣が見もの》

KEY WORD

Area