原城と天草・島原の乱:城郭キュレーター 萩原さちこ

2017.03.13

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おだやかな有明海に面した城

島原半島の南部に位置し、有明海に面した張り出した丘陵にある原城。周囲4キロの三方を有明海に囲まれ、今となっては静かに海が広がるだけの地です。しかし江戸時代初期にはこの場所で、おだやかな景観からは想像できない壮絶な籠城戦がありました。

原城といえば、1637(寛永14)年の天草・島原の乱の舞台となった城として知られます。島原と天草を中心に蜂起した3万7000人の一揆軍は原城に籠城し、12万超の徳川幕府軍と対峙しました。3か月に及ぶ籠城戦の末、全員が皆殺しにされるという悲劇で終幕。日本史上で最も悲惨な内乱であり、幕藩体制の確立にも影響を及ぼす大事件となりました。

突発的な反乱ではなく、長きに渡るキリシタン迫害と窮乏の末路でした。籠城に至るまでのキリシタン迫害の歴史は長く、弾圧は豊臣秀吉が伴天連追放令の頃からはじまり、1609(慶長14)年の岡本大八事件をきっかけに、徳川家康が禁教令を発令して本格化します。

全国でも圧倒的にキリシタンの多い島原や天草はすぐに幕府の標的となり、取り締まりが激化したのでした。島原では半数以上の領民が信者だったといわれますが、その背景には生活苦が起因します。

南蛮貿易の円滑化のために広まったキリスト教が人々の精神を支えるものに変わったのは、人々が困窮からの救いを求めたから。もともと不作の地だった上に心の拠りどころまでも奪われれば、領民の憤りが爆発するのも当然のことでした。

hara-2-min-minhara-3-min-min幕藩体制を揺るがす歴史的内乱

島原の乱は1637(寛永14)年の島原の一揆にはじまり、やがて、時を同じくして蜂起した1万4000人の天草の領民と有馬晴信の居城であった原城に結集することになりました。廃城となっていた原城に新たに土塁や空堀を築いて、大量の武器や食糧を運び込んだのです。

一揆軍は善戦し幕府軍を撃退しましたが、やがて老中・松平信綱が12万の軍を率い指揮官に就くと、劣勢に陥りました。信綱は、農民の命を奪えば年貢を徴収し続けられず幕府にとっても損失と考え、降伏を促すべく兵糧攻めに転換。弾薬や食糧が尽きかけ投降する者も現れましたが、一揆軍が屈服することはありませんでした。

発掘調査により、籠城したと思われる竪穴式住居跡群が発掘されました。鉛の弾丸やクルス、万人坑も出土しています。近畿地方の築城技術を用いた城の姿が確認され、厳しい軍規をもとにした組織的な籠城のようすも浮かび上がってきています。

 

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