岡山城と後楽園:城郭キュレーター 萩原さちこ

2017.03.20

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烏城と呼ばれる黒く輝く城

岡山城は、別名・烏城(うじょう)と呼ばれます。それは、かつて天守の下見板に黒漆が塗られ、太陽の陽射しを受けるとまるで烏の羽のように重厚な輝きを放っていたから。金箔瓦が葺かれていたことから、金烏城(きんうじょう)ともいわれます。

黒漆は、織田信長の安土城や豊臣秀吉の大坂城、秀吉配下の家臣の城だけに採用されたもの。高価な上にメンテナンスに手がかかるため、限られた時期にしか使われていません。金箔瓦もまた、信長と秀吉が城に用いたものです。信長は親族の城のみに、秀吉は重臣の城のみに使用を許し、ステイタスシンボルとして政治的に活用していたとみられています。つまり、黒漆と金箔瓦の使用を許された岡山城は特別な城なのです。

okayama-2 copy-minokayama-3 copy-minokayama-4 copy-minokayama-5 copy-min宇喜多秀家時代の石垣や現存する櫓をチェック

岡山城を築いたのは、豊臣政権で政務を統括した「五大老」のひとり、宇喜多秀家です。「秀」の一字を与えられ、猶子となり、秀吉の寵愛を受けて異例のスピード大出世を遂げました。岡山城は57万石の大大名にふさわしい城として、秀吉の全面指導のもとに新築された城です。

城内に残る石垣は、ほとんどが宇喜多氏時代ではなく、その後入った小早川氏もしくは池田氏時代に築かれたものです。しかし、宇喜多時代の石垣が残存するのも、岡山城の大きな魅力といえるでしょう。本丸中の段に地下展示されている石垣、本丸本段南東の野面積みの石垣などがそれです。

とくに本丸本段南東の石垣は15.6メートルもあり、関ヶ原合戦以前の石垣としては全国屈指の高さ。宇喜多時代はほぼ加工しないまま積み上げた荒々しい野面積で、小早川・池田時代は平面を平らに加工した打込接の石垣です。違いを見比べながら歩くのも、岡山城の楽しみ方です。

城内には2つの現存建造物があります。ひとつは、西の丸西手櫓です。旧内山下小学校の敷地一帯が西の丸で、その西端に西手櫓が建ちます。近年、電車通り沿いの高層ビルが撤去され、西側からよく見えるようになりました。幼少の池田忠継に代わり国政を執った兄・池田利隆が築いたものといわれます。

もうひとつは、月見櫓です。城外側から見ると2重の望楼型で、城内側は3重の層塔型になる珍しい構造。表書院での政務の一環としての小宴の場だったようで、その名の通り月見も行われました。こちらは、池田忠雄が築きました。

 

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