「美しき城」 vol.61

広島城の天守:城郭キュレーター 萩原さちこ

2017.04.03

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別名・鯉城と呼ばれる城

広島城は、別名・鯉城(りじょう)と呼ばれます。城の付近一帯の呼び名がかつて己斐浦(こいのうら)だったと伝わり、「己斐」を「鯉」と置き換えて鯉城になったといわれます。

堀にたくさんの鯉がいたから、黒い天守が鯉のようだから、などという説もありますが、江戸時代後期に漢詩の一節に「鯉魚の城」と読まれ、おもに明治以降に定着したようです。プロ野球の球団名である広島東洋カープも、英語の「carp=鯉」が由来で、鯉城が冠されています。

広島城は、1589(天正17)年に毛利輝元により築城が開始された城です。広島城が築かれている太田川河口の五ヶ村は、陸上交通・海上交通の結節点。また、太田川の河口部は元就が広島湾のほとりへ進出後に直轄領としており、都市形成において注目の立地だったようです。

土や砂が溜まってできた三角州(デルタ)を、政治・経済・交通の中心地にできると選定して開発した輝元は、広島の生みの親ともいえそうです。

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毛利から福島、浅野の城へ

内堀で囲まれた本丸と二の丸を凹型の三の丸が囲み、周囲に中堀がめぐります。そのまわりに4つの外郭を配して、外堀で囲む構造です。太田川も西側外堀の役割を果たしています。

特徴は、本丸の南側に二の丸を馬出として配していること。本丸の出入口の外側に小さなスペースを置くことで、防御力を高めているのです。本丸の中御門と二の丸は土橋で連結されていました。南側が正面、北側が裏手にあたります。

大大名として豊臣政権下で力を持った輝元でしたが、1600(慶長5)年の関ヶ原合戦を機に失脚します。代わって入った福島正則は、大がかりな改修工事を行い、国境の6城に有力家臣を配置して領国支配を固めたほか、膨大な数の櫓を建造しました。江戸中期および後期の記録には櫓が88か所もあったと記され、二重櫓は35棟もあったといわれます。

ところが正則は、1617(元和3)年の洪水で被害を受けた城内の石垣を幕府の許可なく修復したことを咎められ、改易されてしまいます。1619(元和5)年には、浅野長晟が城主となり、以後は版籍奉還まで浅野家が広島を治めました。浅野時代には武家諸法度による規制により石垣や建造物の修復以外の改修はほぼ行われず、福島時代の姿をほぼ留めているようです。

 

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