金子真也金子真也

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Portraits

日本のエグゼクティブ・インタビュー

2024.10.25

鯖江の技術を世界へ。鯖江初の上場を実現した、アウトサイダーの挑戦 Japan Eyewear Holdings代表取締役社長 金子真也

1958年に創業した金子眼鏡は、スタイリッシュなアイウェアの代名詞として、幅広い年齢から支持されている。2023年には、金子眼鏡の持株会社である『Japan Eyewear Holdings』が東京証券取引所のスタンダード市場に上場を果たすが、これは鯖江の眼鏡メーカー初の上場という功績であった。眼鏡問屋だった家業を大きく飛躍させ、眼鏡業界に新風を吹かせた金子真也さんに、そのきっかけとなった出来事から、眼鏡業界の革新と挑戦について聞いた。

 

 







小学校のクラスメートの大半は眼鏡業界に従事するおウチの子

 

 

福井県鯖江市は人口約7万人弱であるにも関わらず、全国眼鏡生産量の約95%を占め、世界3大生産地の一つとなっているモノづくりの街である。この鯖江の街で、金子氏の父が眼鏡卸問屋『金子眼鏡商会』を立ち上げたのは、金子氏が誕生した1958年のこと。それから大学4年間を除き、現在も鯖江に暮らし続けている。


「子供の頃は、クラスメートの両親のほとんどが眼鏡業界に携わる仕事をしている、そんな環境で育ちました。子供時代は、世の中は全てそういう環境なんだと思っていました」。

 



高校を卒業後、東京の大学へ進学をするが、その際父に約束させられたことが、『大学を卒業したら家業を継ぐこと』だった。将来の道を自分で見つけられなかったことは、長く心のわだかまりとなって残っていたこともあり、自身の3人の子供たちは家業を継いでいない。



「大学時代は他の学生が就職活動する中で遊びまくっていましたね。まさに東京を満喫していましたが、その時に受けた東京という街の刺激や感性は今につながっていると感じています」。








常に謙虚な姿勢で笑顔あふれる金子氏。 常に謙虚な姿勢で笑顔あふれる金子氏。

常に謙虚な姿勢で笑顔あふれる金子氏。







大学卒業後、約束通り鯖江へと戻った金子氏は金子眼鏡へ入社し、はじめて家業が直面する課題に焦燥感を覚えたと語る。

「金子眼鏡商会は後発であったため、すでに市場は出来上がっていました。当社が大手販売店に入り込む隙間はなく、地方の販売店に懸命に営業活動をする以外の道はなかったんです。そのため、出張時はホテルでなくサウナや高速道路のパーキングエリアで仮眠するなど、できる限りの経費節減をするものの、それでは限界がありますよね」。

 


しかし販売店を回る中、お客様の声や眼鏡を見る目を養っていたことは後の飛躍につながった。



ライセンス事業が売り上げの大半を占める時代への不信感

 

 

1986年、金子氏28歳のとき、個人経営だった会社を法人化する。

 



「当時は、有名アパレルブランドに高額なライセンス料を払って、そのブランド名(ロゴ)を眼鏡に刻んで販売するライセンスビジネスが主流でした。しかし私から見たら、どれも似たデザインでロゴだけが違うだけ。そんな眼鏡はあまり魅力的には思えなかったんですね。そこで、自分ならどんな眼鏡が欲しいかな?そんな気持ちから、自分でデザインを考えるようになったんです」。

 


これが金子眼鏡のビジネスモデルである、企画・デザイン・小売、さらには製造までを一貫して自社が手がける一気通貫ビジネスのはじまりでした。1987年『BLAZE』(ブレーズ)ブランドが金子氏の手によってスタートする。




それはちょうどバブルが崩壊した頃であり、ファッション業界も大きな変遷の時が訪れていた。ブランドショップからセレクトショップへと人々の関心は移り、高級ブランドで全身をキメるスタイルから、自分の感性でアイテムをコーディネートしていくスタイルが主流となっていった。




視力矯正器具の眼鏡からアイウェアへと昇華させた功績

 

 

「かつての眼鏡は視力矯正器具であり、眼鏡ショップに行けば、白衣を着た人が視力測定をしてくれるのが一般的でしたよね。しかし、ファッションの楽しみ方が変化し、眼鏡をファッションアイテムの一つとして考えられるようになっていく中で、ブランドロゴではなく、眼鏡のデザインが重要視されるようになりました。そのような時代背景もあって、『BLAZE』はファッション変革期の潮流に乗れたのだと思います」。







会社が成長し、すべての店舗に顔を出し、全社員とコミュニケーションを取るのが難しくなったのがもどかしいと語る。 会社が成長し、すべての店舗に顔を出し、全社員とコミュニケーションを取るのが難しくなったのがもどかしいと語る。

会社が成長し、すべての店舗に顔を出し、全社員とコミュニケーションを取るのが難しくなったのがもどかしいと語る。


しかし、最初から『BLAZE』がうまくいったわけではなかった。これを武器に、今まで足を踏み入れられなかった、ファッション感度の高い渋谷や原宿のショップへ売り込む機会を得た金子氏であったが、独学で眼鏡のデザインを学んでいたことから、最初は小売店にダメ出しをされ続けたと言う。



「小売店からは眼鏡の構造面でのダメ出しを何度も受けましたね。その都度持ち帰っては修正することを繰り返してブラッシュアップを重ね、ようやく、3年くらいで人気ショップにも認めてもらえるような商品になりました。その後は多くの人が手に取ってくれる人気商品になりました」。

 

 



金子氏の先見の明と感性によって生み出された、オリジナリティの追求や一気通貫のモノづくりは眼鏡業界の革新であり、眼鏡がアイウェアへと昇華する瞬間になった。

1997年には、より独自性を追求した『SPIVVY』も発売し、ニューヨーク進出を果たすなど、自社ブランド事業は大きく成長をしていく。



鯖江の職人の技術が光る、作り手が見える眼鏡フレームの誕生

 

 

しかし金子氏は自社のオリジナルブランドの成功をただ喜ぶ気持ちにはなれず、鯖江の眼鏡業界の先細りに不安感が募っていた。そんなタイミングで、先細る仕事に廃業を覚悟した一人の職人、山本泰八郎さんが『自分の作った眼鏡を見て欲しい』と金子氏のもとを訪れる。

 

 



「その眼鏡を手にした瞬間、その圧倒的な存在感に息を飲みましたね。決して洗練された形とは言えませんでしたが、その質感や光沢、眼鏡から伝わる職人の気概や人生の重みなど、今までの眼鏡にはない輝きに感動すら覚えました。すぐに商品化に向けて動き出しました」。課題点であったデザインは金子氏がアドバイスをして、1つのブランドにする決意をしたと語る。


「横文字のかっこいい名前にすることも考えましたが、山本さんが一つひとつ手仕事で作り出した眼鏡に相応しいのは、山本泰八郎さんの名前そのものではないかと思い『泰八郎謹製』というブランドをつくりました」。

現在、スーパーマーケットに行けば、野菜や肉などの生産地はもちろん、生産者の名前がわかる時代ではあるが、当時は、知名度のない職人の名をブランド名にすることはかなりの挑戦でもあったはずだ。




「工場には精度の高い設備を取り揃えてはありますが、しかし職人の仕事はどんな精度の高い機械にも生み出せない魅力があることを、多くの人に感じて欲しいんです。手仕事、伝統工芸の温もりは手に取ればわかると思います」。

 



金子氏はさらに、サンプラチナ職人・山崎恒眸さんの『恒眸作』、『小竹長兵衛作』『井戸多美男作』『佐々木與市作』など、鯖江の技術をプライドとする『眼鏡職人ブランド』をつくり、金子眼鏡の一つの柱とした。



店舗がお店の印象がPRになるために、特別な宣伝広告はしない 丸の内仲通り店の前で。 店舗がお店の印象がPRになるために、特別な宣伝広告はしない 丸の内仲通り店の前で。

店舗の印象がお店のPRになるために、特別な宣伝広告はしない。丸の内仲通り店の前で。

 



製造からメンテナンスまで、一気通貫でのモノづくりだからできるこだわり

 

 

金子氏のデザイン力は多くの人が認めるところだが、それを支えるのが、金子眼鏡が自社工場を持ち一気通貫でのモノづくりである。眼鏡業界では、通常、分業制が多い中でこれも革新的な取り組みであった。




「眼鏡は半製品と呼ばれています。メガネフレームだけでは完成品ではなく、レンズを入れ、かけ心地などを調整し、そしてはじめて眼鏡として完成します。しかし使い続ければフレームに歪みが生まれますので、また調整が必要になります。これをすべて自社で賄ってこそ金子眼鏡のビジネスは成立します。当社は中国へ進出を行いましたが、実はこの背景には、中国から日本へ旅行にいらして金子眼鏡で買い物をされる方が多くいたんです。しかし購入後のメンテナンスができない、この課題解決の意味合いもあってのことです」。

 

 



さらにはこのビジネススタイルが欧米進出を難しくしているとも語る。欧米人とアジア人では顔の骨格が微妙に異なるため、欧米人用に眼鏡フレームをリサイズしないといけない。それを現段階では自社工場で行えないことが1つの理由だと言う。

 



「現在3つの工場があり、2025年にはさらに進化した工場が完成します。とても素晴らしい工場ですね。当社ではデザインをする人、工場で生産する人、店舗で販売する人、みんなが主役ですと社員にはよく話します。みんなの力があってこそ眼鏡が完成するわけですから」。



上場によって背負う責任はあるが、鯖江の街に光を与えたい

 

 

2023年、金子眼鏡の持ち株会社であるジャパン・アイウェア・ホールディングスは東証スタンダードに上場を果たした。飛躍的な拡大をしている金子眼鏡であるが、金子氏のモノづくりへのこだわりや商品クオリティに関しての情熱は一切変わらない。

 

 


「会社が大きくなることで、まわりの目が変わっていることは感じていますが、私たちが行うべきことは何も変わりません。ただ、いまは投資家の皆さまのために、企業ブランドをいかに守り成長させるのかをきちんと考える必要性があると思っています」。

 




さらに金子氏には鯖江のモノづくりをリードする責務もある。

「私は鯖江のアウトサイダーで、協会などにも属せずに自由にやらせていただきました。これからは地場産業でも上場までできるんだということを若者たちに示し、少しでも鯖江の未来に光がさせたら嬉しいですね」と語る。



鯖江と東京を行き来しながらも、鯖江で過ごす時間がやはり多いと語る。





金子真也 Shinya Kaneko

1958年生まれ。中央大学卒業後、金子眼鏡入社。1986年金子眼鏡株式会社に法人化。1987年初のオリジナルブランド「BLAZE」「SPIVVY」コレクションスタート。さらに手作り眼鏡ブランド「泰八郎謹製」「恒眸作」をスタートさせる。1999年代表取締役に就任。2001年直営店「FACIAL INDEX NEW YORK東京店」を丸の内・仲通りにオープン。2006年自社工房「BACKSTAGE」設立。2016年パリ・マレ地区にフランス直営1号店「KANEKO LE MARAIS」をオープン。2021年中国法人「金子眼鏡(上海)有限公司」を設立。2022年フォーナインズ取締役就任、23年5月Japan Eyewear Holdings代表取締役社長就任。2025年、4つ目の自社工場が完成予定。現在、国内は約80店舗、海外5店舗(中国・フランス)を構える。

 

島村美緒  Mio Shimamura

Premium Japan代表・発行人兼編集長。外資系広告代理店を経て、米ウォルト・ディズニーやハリー・ウィンストン、 ティファニー&Co.などのトップブランドにてマーケティング/PR の責任者を歴任。2013年株式会社ルッソを設立。様々なトップブランドのPRを手がける。実家が茶道や着付けなど、日本文化を教える環境にあったことから、 2017年にプレミアムジャパンの事業権を獲得し、2018年株式会社プレミアムジャパンを設立。

 


Photography by Toshiyuki Furuya

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