精養軒

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栗下直也の東京酔歩 偉人と歴史の裏路地

2026.9.1

第四回 「上野精養軒」 はやい、うまい、百五十年。鴎外が“ハレの日“に行く洋食店

ポークカツレツ(デミグラスソース)2300円



経済記者出身でありながら、なぜか酒にまつわる執筆が多い栗下直也。そんな栗下が、かつての偉人たちが愛した酒場を訪ね歩く。政治家や文豪、実業家たちはどんな酒を飲み、何を語り、どのように夜を楽しんでいたのか。実際に店を訪れ、その酒と歴史を味わいながら、偉人たちの日々を垣間見る“大人の酒場紀行”である。

 

第四回は文豪、森鴎外が通った、上野の精養軒である。



森鴎外といえば、陸軍軍医総監にして文豪である。明治が生んだ最強の二刀流といっても言い過ぎではない、エリート中のエリートだ。さぞや日々美食を尽くしていたのだろうと思いきや、資料を読むと家の食卓は驚くほど質素だ。それならば鴎外はどこで「ハレの食」を摂っていたのか。その答えのひとつが、上野公園の高台に今も建つ「精養軒」である。

 




軍医総監、家では煮た野菜




数年前、文京区立森鴎外記念館で特別展「鴎外の食」が開かれた。その紹介記事によれば、長男・於菟の回想に残る鴎外の日常は簡素そのものだったという。祖母や母のつくる惣菜に文句も言わず、味の濃くない、柔らかく煮た野菜を好んだ。好物はナスやキュウリというから、ほとんど精進料理である。全くもってドイツ帰りの臭いがしない食卓である。

ただ、客が来ると話は一変する。鴎外邸を訪ねた石川啄木は、日記に「御馳走は立派な洋食」と書き残している。鴎外はドイツ語のレシピ本から西洋料理を選び、キャベツ巻き、今のロールキャベツ―などを妻らに作らせたという。

家族での外食も洋食で、行き先は築地精養軒や上野精養軒だった。当時の上野精養軒のアラカルトメニューには「チキンカツレツ」「スクランブルエッグス」といった品書きが並んでいたそうだ。ふだんは煮た野菜、ハレの日は精養軒。実にメリハリの人である。見習いたい。私は揚げ物と酒で毎晩を勝手にハレ(晴れ)の日にしており、体だけが着実にハレ(腫れ)ている。



岩倉具視が後押しした、西洋料理の草分け



精養軒の創業は明治五年(一八七二年)。創業者の北村重威が岩倉具視に相談し、「社交上、外交上ぜひ必要」と後押しを受けて築地に開いた。日本のフランス料理店の草分けである。明治九年(一八七六年)には上野公園の整備に合わせて、不忍池を見下ろす現在地に支店が誕生する。明治十二年には来日した米国のグラント将軍夫妻をここで接待したというから、国賓級の社交場だ。関東大震災で築地の本店が焼失すると本店機能は上野へ移り、今に至る。




上野駅公園口から公園内へ進むと見えてくる看板。



屋上やてテラス席もある「上野精養軒本店」。



文学にもたびたび顔を出す。漱石の「三四郎」では、精養軒がモデルとされる「上野の西洋軒」での会合に誘われた三四郎が「僕はあんな所へ入つた事がない。高い会費を取るんだらう」と尻込みするし、鴎外の「青年」には、主人公が上野を散歩すると精養軒の入り口前に立派な自動車が停まっている場面がある。明治の学生にとって、ちょっと敷居の高いハイカラの象徴だったわけだ。その敷居の高さは、令和の中年の私にとっても大差ない。



四組待ちから五分で着席、という老舗



平日の午後二時。上野駅の公園口から歩くこと五分、動物園帰りの家族連れの流れに逆行しながら坂を上ると、杜の中に白い建物が現れる。建物にはコース主体のフランス料理店と気軽な洋食レストランが同居していて、今回の目当ては後者だ。正面左側の洋食の入り口には、四組ほどの列ができていた。

百五十年の老舗である、二十分は待つか――と身構えたら、五分で案内された。回転が異様に速い。百五十席の大箱ということもあるだろうが、案内も配膳も実にきびきびしている。さすがは軍医総監が通った店と思ったが、それはたぶん関係ない。

窓の外には上野の杜の緑が広がると書きたいが、席は窓に面していない。席に着き、まずはビールの中瓶を頼む。料理はポークカツレツとビーフシチューにした。鴎外の時代の品書きにあったのはチキンカツレツだが、今の品書きにチキンがないからポークでご容赦願いたい。

待つこと十分ほどで、両方が揃った。この速さもすごい。ファミレスだって、もう少しもったいぶる。



仕込みに一週間のソースが、十分間で出てくる



ポークカツレツには、たっぷりのデミグラスソースがかかっている。精養軒のデミグラスは、明治五年の創業以来受け継がれてきたベースに肉や骨、香味野菜を加え、こしながら一週間ほど煮込むのだという。つまり、卓に届くまではわずか十分、仕込みには百五十年と一週間かかっている。この時間こそが、老舗の洋食の秘儀である。

カツレツは、とんかつではなくあくまで「カツレツ」だ。衣は薄めで、ナイフを入れると素直に切れる。豚の甘みに、黒々としたソースのコクが重なる。ビールが進む味だ、と書けば聞こえはいいが、昼間から酒を飲む理由が欲しいだけだ。

ビーフシチューに至っては、ほぼデミグラスそのものを食べる料理である。ほろりと崩れる牛肉に、艶のあるソース。一口目から味の輪郭がはっきりしていて、なるほどこれは明治から続くわけだと納得する。文明開化とはこういう味だったのかなどと適当なことを考えているうちに、気がつけば瓶が軽い。

会計は、正直、安くはない。ビーフシチュー三三五〇円。ただ、待たせず、はやく、うまい。「高い会費を取るんだらう」と尻込みした三四郎に教えてやりたい。令和の今は取られるのは食事代だけで、それだけの価値はある。



フランス西洋料理のベースとなるソースである「デミグラス」を「ドミグラス」と呼ぶのが精養軒流。



冷えたビールはやっぱり欠かせない。



ハレの日の店がある人生



帰り道、不忍池を眺めながら考えた。鴎外の日常の食事は煮た野菜で、ハレの日が精養軒。私は日常が揚げ物と酒で、ハレの日も揚げ物と酒である。どちらの生き方が正しいかは言うまでもないが、少なくとも、ハレの日に行く店を持っている人生は豊かだ。

上野には博物館も美術館もあるが、精養軒は腹も膨れる文化である。明治から煮込まれてきたソースは、今日も誰かの皿にかかっている。文化が続くというのはたぶんそういうことだ。

不忍池の水面が、午後の光で鈍く光っていた。腹は膨れ、坂を下る足は軽い。






本日のおすすめ

 

ポークカツレツ(デミグラスソース)2300円

ビーフシチュー 3350円(パンまたはライス付き)

ビール(中瓶) 850円

※価格は変更の場合があるため、店舗にてご確認ください



店舗情報

上野精養軒本店 レストラン(洋食)

 

住所:東京都台東区上野公園4-58
電話:03-3821-2183
営業時間:平日11:00~17:00(LO16:00)、土日祝10:30~18:00(LO17:00)
定休日:月曜日(祝日は営業)
※予約不可・来店順に案内

アクセス:JR上野駅 公園口 徒歩5分/京成本線 京成上野駅 正面口 徒歩5分/東京メトロ上野駅 7番出口 徒歩5分

 

栗下直也 Naoya Kurishita

1980年生まれ、東京都出身。著述業、書評家。横浜国立大学大学院国際社会科学研究科経営学専攻修了後、専門誌をへて独立。経済記者出身でありながら、なぜか酒がらみの文章が多い。著書に『人生で大切なことは泥酔に学んだ』(左右社)『偉人の生き延び方 副業、転職、財テク、おねだり』(同)、『政治家の酒癖 世界を動かしてきた酒飲みたち』(平凡社新書)、『得する、徳。』(‎ CEメディアハウス)がある。

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