八木通商株式会社 八木雄三氏八木通商株式会社 八木雄三氏

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2018.7.21

日本のプレミアムに取り組む企業 
八木通商株式会社 八木雄三氏インタビュー

八木通商は、「モンクレール」「J&M デヴィッドソン」「バブアー」「マッキントッシュ」「モンクレール」など数々の一流ブランドを扱う繊維専門商社。グローバル・マーケティング&マーチャンダイジングを掲げ、新たなライフスタイルを創造してきた企業です。同社におけるブランドビジネスを確立し、八木通商を大きく飛躍させた代表取締役社長・八木雄三さんにお話を伺いました。

肉を信じているのにはワケがある

小柄ながら常にエネルギッシュな八木雄三さん。ファッション業界では「八木社長は肉好きだ」というのが定説だそうです。

 

「そうですね(笑)。僕は世界中のステーキハウスを日本で一番、知っている男だと思いますよ。だって、商社マンですから。世界中を駆けめぐる商社マンには肉が一番なんです」。

 

しかしその“肉好き”には理由がありました。

 

「まずは物理的な理由からです」。
アメリカのミシガン州立大学院でMBAを取得し、本当はそのまま現地で就職する予定だった八木さん。しかし父と妹がわざわざアメリカに赴き、「どうしても家業に戻ってきてくれ」と説得。1967年のことです。

「当時の八木通商は、小さなファミリービジネスの会社でした。終戦の翌年に父が大阪で創業し、素材の輸出を柱としていました。若い僕には正直、そこへ入ることに魅力を感じられず、その時受けたアメリカの6社ほどの大企業からも内定をもらっていたから、『さてどこへ入社しようか』なんて考えていたのです」。

 

帰国し、本社で繊維輸出業務に携わってはみたものの、当時の社員たちにはアグレッシブさが足りず、自ら世界市場を開拓しようと決心。サムソナイトのトランク4つに日本製の糸や生地のサンプルをみっちりと詰めて、八木さんは未知の世界へと飛び出しました。最初は香港。そこで繊維輸出のよい市場が作れたので、中近東や中南米、アフリカ、ヨーロッパ、オセアニアへと、次々に行商先を広げていったのです。

 

「世界中を行商して回りましたが、自分のために使えるお金はありません。宿があればいい方、国によっては野宿に近い日々だったこともあります。食事も同様。あの頃にわかったんです、唯一、頼りにできるのは焼いた肉だけだと」。

 

国際行商時代に培われたのが、肉への信頼だったというわけです。

「冗談だと思うでしょう? ある時、アフリカの屋台で片言の英語をしゃべるお兄ちゃんから焼いた肉の塊を買ったんです。何の肉かと訊けば、『ブッシュミートだ』という。要するに、前日に森で死んだ動物を担いできてそれをバケツでザブッと洗い、塊に切っては火で焼いたものなんですね。しかし、それしかエネルギー源となる安全な食べ物はないんです。ちゃんと焼けば、何の肉でも何とかなります」。

 

20代の6、7年間は、年に8ヶ月は世界を飛び回る生活。商売上の交渉はもちろんタフでしたが、生きるという意味でも過酷。それでもしんどいと思ったことはなかったといいます。

 

「地を這うような行商でしたが、それだけの価値があり、結果を出しました。国際行商で一番儲かったのはシリアです。第三次と第四次の中東戦争の最中で、空路での入国ができず、僕はベイルートからボロ車を借りて国境越え。文字通りの命がけです。しかし、他の商社はリスクを冒してまでシリアには営業に行かなかったものですから、現地に着くと想像に反して物資が欠乏していたので、何しろ、驚くほど大量に売れました」。

怖いもの知らずにして、機を見るに敏

破竹の勢いで繊維輸出マーケットを作った八木さん。しかし転機が訪れます。

 

「1971年に、ニクソンショックが起こりました。これが、ターニングポイントです。あの頃は1ドル360円。それが73年に変動相場制になり、308円へと円高が進みました。日本の戦後復興を支えたのは繊維輸出。僕もすさまじい勢いでモノを売ってましたが、総合商社がどんどん入ってきてマージンがきつくなり、このまま円高が進めば利益が出なくなると危機感をつのらせていたのです。

 

その頃、イタリアのビエラの紡績や染工場に日本のアクリル糸を販売していましたが、ミラノに行くと、街のショーウインドウの美しさに心惹かれました。自分がよく知るアメリカとはまた違う。今後は日本人の所得が上がり、生活も変わるだろう。高級ファッションへの興味も高まるはずだ。そういった予測に加え、ニクソンショックが後押しして、180度の方向転換を決めたのです。特別でいいもの、ラグジュアリーを専門とする製品輸入を始めようと。そこで1971年に輸出で儲けた利益をみなつぎ込んで、ミラノにオフィスを開業したのです」。

 

欧米からのファッション製品輸入事業を社内創業したこの時のことを、八木通商では「第二の創業」と位置づけているそうです。ミラノ・オフィス開業当時、八木社長は29歳。何も怖くないお年頃……と思いきや。

 

「子どもの頃から、何に対しても怖がらない性格なんですよ(笑)。まぁ悪ガキでしたが、それが仕事に活きたわけです」。

1970年代にインポートビジネスに着手した八木通商。その後、1996年に取扱いをスタートしたダウンジャケットの「モンクレール」はわずか15年でラグジュアリーブランドにまで成長しましたが、八木さんとダウンジャケットとの出会いは、既に70年代にあったのだそうです。

「ウェイ・オブ・ライフ」の変換期を捉える

「まだ当時は知る人ぞ知るモンクレールの取扱いを始めたのは1996年。でも僕がダウンジャケットに最初に目を付けたのは、1971年に社内でブランドビジネスを始めた時だったんです。カナダのダウンジャケットを輸入し、問屋や百貨店などを回りましたが、まったく売れず。当時はビームスやシップスなどのセレクトショップもない時代です。国内では「ダウン、それなんですか?」という反応で、注文をくれたのは東京銃砲店というハンティングの店だけでした。少量の注文だけでしたが、感激しましたね」。

 

モンクレールの成功の秘訣を、八木さんは「Way of Life/ウェイ・オブ・ライフ」の変換期だと言います。

 

「よく今、アパレル業界の方々はライフスタイルの提案などをおっしゃいますが、店にカフェを併設するとか、そういう話じゃありませんよ。『ウェイ・オブ・ライフ』が変わっていく瞬間を捕まえる、それが大事なんです。八木通商がモンクレールを始めた時は、まさにそれでファッションのカジュアル化、そしてラグジュアリーカジュアルが勃興しはじめた時代だったのです。そして僕はダウンジャケットに関する知識を20年前から蓄積していた。突然振って湧いた話ではないのです」。

 

八木さんがビジネスを語る際には、いくつもの明快でわかりやすいフレーズが飛び出します。「Product talks itself/プロダクト・トークス・イッツセルフ」もまた、その一つです。

 

「スタッフにはいつもこう言います。君たちが時間かけてくどくど説明しなければならない商品は、ダメだとね。お客さんの前にポンとそれを置いただけで、売れる。それぐらいにオリジナリティと魅力がある商品を探してこなければ、商社マンは務まりません。

 

バブアーのワックスジャケット、マッキントッシュのゴム引きコートもそうですね。コピーしようと思っても、できないでしょう?それほどのキャラクターがなければ、真の意味で消費者がブランドに対する満足感を得られないんですよ」。

 

八木通商はまた小売店がまだ気づかずにいる潜在的に消費者が求めているものを発見する事に重きを置いています。将来ライフスタイルを変えるようなユニークな”ダイヤモンドの原石”を探しだし、あらゆるマーケティング面でのサポートをして研磨し、ブランドを育てていくことを繰り返し積み上げてきた結果が、今の八木通商を形作っているわけです。

 

「当初のモンクレールの権利を持っていた会社は、経営的に不備の多い会社でしたが、『絶対に世界一のダウンを作る』という精神はどんな時も揺るぎませんでした。現在のモンクレールは我々がスタートした当時とは別の会社ですが、その全身の会社でも、会社が傾いていても一貫して、最高級のダウン原料を仕入れていたんですよ。だからこそ、モンクレールのダウンには、お客を動かす力があったのです」。

”欧米でのブランド企業への投資”

そうして八木通商は、モンクレールのブランドと製品の可能性を信じマーケティングした結果、モンクレールは大人気ブランドへと成長を遂げました。2009年には合弁でモンクレール ジャパンを設立。銀座や青山に旗艦店をオープンし、ラグジュアリーブランドとしての存在感を際立たせています。

「既に成功したブランド以外にも色々な投資を続けていますから、投資額はなかなかの金額になっていますよ。ハイリスク、ハイリターン狙いだと言われますが(笑)、実際のところラグジュアリービジネスをやろうとしたら、ものすごいお金がいるんですよ」。

 

良いものを“売る力”をもっと重視せよ

「プロダクト・トークス・イッツセルフ」を重要視する八木さんですが、一方で、ものづくりにだけ固執しても、ものは売れないと警鐘を鳴らします。

「輸入にばかり着目されがちですが、八木通商では祖業である繊維輸出も続けています。今、最も売り上げが伸びているのはパリの有名オートクチュール・メゾン向けです。日本ならではのテクノロジーを使い、特別な生地を作って供給しています。

 

でもね、せっかく良い物を作っていても、それだけでは販売に成功しません。メゾン側の要望、生産側の技術力や特性の双方を完全に理解し、オリジナルプロダクトをプロデュースする能力が必要なのです。ものを売るには、売るための手法がある。『どうやって売るのか?』。それがわからなければ、どんなにいいものだって、売れません」。

 

日本のファッション製品を海外でマーケティングしたいという気持ちは大いにあると、八木さんは言います。

 

「興味はあります。デザイナーには何年かにひとりかふたり、優れた方が出てきます。また合繊やデニムなど、一部生地メーカーにもよいものがあります。でも、ビジネス上の国際競争力が有り、オリジナリティーが有るものは未見つかっていません。いつかは、やれるといいですね」。

 

常に業界の中でユニークなポジションを築いてきた八木通商。将来はどんな方向へと進もうとしているのでしょうか。

 

「いくつものユニークなブランドやプロダクトを見つけ、マーケティングや投資を行い、ブランドとして育ててきました。今後はさらなる成長のためにこれらブランドの会社をグループ化しようとしています。これからも欧米ブランドに出資して、魅力あるブランドを世界へと届けますよ。まだまだこれからですが、いつか世界中に知られる会社になると思っています」。

 

 

※この記事に記載されている内容、情報は公開当時のものとなります。

<プロフィール>

八木雄三(やぎ ゆうぞう)

1941年兵庫県生まれ。
アメリカ・ミシガン州立大学経営大学院でMBA取得。大学院修了後、1967年に八木通商入社。1986年、代表取締役に就任。1993年よりミシガン州立大学国際関係学部客員教授。2004年 仏国家功労勲章オフィシエ、 2011年英名誉大英勲章OBE、2016年 伊共和国国家功労勲章グランデウフィチャーレを受章。

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