「大谷山荘」――旅館や温泉愛好者にとっては、知らぬ者のない名旅館である。山口県長門市にあるこの宿は、 2016年12月に開催された「日露首脳会談(安倍晋三首相・プーチン大統領)」のワーキング・ディナーの舞台となったことが記憶にある人も多いだろう。98室もある大型旅館であるにもかかわらず、きめ細やかなサービスを称賛する声はいや増すばかりだ。その旅館のオペレーションが高く評価されて、「PREMIUM JAPAN AWARD 2026」を受賞した。山の緑が生き生きと照り輝く時節に、大谷和弘・代表取締役社長を訪ねた。
2023年に大きく変えた戦略シフト
室町時代に開湯し、600年もの歴史を有するのが山口県の長門湯本温泉である。
この温泉郷を代表する旅館が「大谷山荘」だが、旅館や温泉愛好者がこぞって訪れる豪壮な宿だ。温泉街の真ん中を貫く音信川(おとずれがわ)が、宿のすぐ脇を流れている。春には桜の並木、夏には蛍を鑑賞できる透明度の高い川である。
「大谷山荘」の5代目の主人である大谷和弘・代表取締役社長に聞いた。
長門湯本温泉郷でも、威容を誇る大谷山荘。蛍も舞い踊る音信川。
客室は全98室で、23タイプに分かれている。
「今のところ、本格的な改装としては最終段階のものを2023年に行いました。10畳の純和室が24部屋あったのですが、それらをすべて改装し、露天風呂付きのスイート客室、畳部屋に調和した設えにベッドを備えた、現代的な和洋室に変えました。2部屋をドッキングさせて広くした部屋もあるので、全108室から全98室となりました。これによって、露天風呂付きの客室比率が全体の2割となりました」
広々としたスイート客室。露天風呂付きだ。
大改装をする決断には理由があった。
「きっかけはコロナ禍です。それを転機として、経営戦略が大きくシフトしました。以前からの構想でもあったのですが、団体のお客様から個人の顧客を主軸にした経営ヘ本格的に舵を切りました。それは大きな経営判断ではありました。うまく行くかどうかは賭けでしたが、結果として顧客満足度と客単価の向上につながりましたね」
コロナ前比で、宿泊客数は約2万人減少したにもかかわらず、宿泊売り上げは同水準を維持したというから凄い。
部屋付きの露天風呂は源泉掛け流し。そこからの山の眺望が見事だ。
奇跡的なソフトウェアの変革
以上は、見た目にもわかりやすいハードウエアの改革だが、大谷社長の変革の主軸はソフトウェアにあった。それは五項目にのぼる。それを説明する前に、ゲストが初めに体験するのは、全車に対するバレーパーキング(スタッフが駐車・出庫してくれるサービス)のオペレーションや、一組一組へのチェックイン対応である。この規模の旅館でそれを実行するのは奇跡的とも言える。
さて、五項目であるが、その第一として「情景(眺め)=ご馳走という価値設定」がある。
「大谷山荘が定義する贅沢さって何だろうと考えた時に、やはりこの場所の固有性にあると思ったわけです。今までは、旅館の脇を流れる音信川を望む客室をひとつの目玉と考えていたのですが、部屋から目の前に見える『山』の眺望も、お客様にとってのご馳走なのではないかと気づいたのです。原点的に『山荘』じゃないかと」
なにしろ、客室から目の前に迫り来る山の緑は圧巻だ。
「眺望の弱い部屋は、館内体験を充実させることで補完しています」
日本海に面する仙崎港直送の新鮮この上ない魚介類。
第二は、「料理の刷新」だ。
「料理の刷新は三つに分かれます。一つ目は料理を『一品出しの喰切料理へ移行』させたことです。大規模旅館では難易度が高いオペレーションなのですが、2023年から敢行しました。二つ目は『献立の月替わり化』です。従来は年に4回だった献立変更を、月替わりに変更し、リピート顧客の満足度を向上させました。三つ目は『提供種類の集約』です。かつては、多様な価格帯に合わせて会席料理のコースをつくっていたため、十数種類もあった会席料理は、単価を高めることによって最終的に2種類まで集約されました。それによって、一品の品質向上とオペレーションの効率化が実現できたのです」
確かに、「大谷山荘」の一品料理は、満足度が極めて高いものだ。この規模の旅館でそれを実現している事実には驚きを禁じ得ない。
着物を着たスタッフも客にとっては風景の一部。歩き方まで指導している。
第三は、「リノベーションの工夫」だ。
「これは改装に絡むことでもありますが、既存の和室構造にあった床の間や押し入れをデスクスペースなどに転用しました。また、タオルウォーマーやコーヒーマシンを全室に導入して、お客様の要望を反映させています」
第四は、「施設の有効活用」である。
「これもコロナ禍がきっかけではありますが、コロナ化で不要になった団体客向けの二次会施設(クラブ)を、露天風呂付き客室の宿泊者専用クラブラウンジに転換しました。また川沿いの和室を個室食事処に改装することで、部屋食を減らしてレストラン食ができるようにしました」
第五は、「朝食の魅力向上」だ。
「朝食の評価が課題だったのですが、パン職人を採用して、館内で毎朝焼き上げる自家製パンを提供することにしました。これが今や名物となりまして、『大谷山荘のパン』としてブランド化に成功しました。余ったパンは社員食堂で提供し、フードロス削減に役立てています。実は従業員も楽しみにしていまして、満足度もそれで向上しました」
朝食は和食、洋食、バイキングから選ぶことができる。
これだけの施策をコロナ禍以降だけに限っても、矢継ぎ早に繰り出して、いずれも成功に導いた大谷社長の手腕は、見事の一言に尽きる。そのビジョン、先見性、ゲストの立場に立った想像力、胆力とリーダーシップ……、それらは数多の旅館経営者あれども、国内屈指のものと言えるだろう。
「別邸音信」のロビーには、作家の作品が展示してある。
地元とのつながり
旅館としての付加価値を高めるため、大谷山荘では地元との連携を大切にしている。
大谷山荘の強みは、「土地の人・自然・日本文化」が融合した「総合力」にある。その地域連携は大きく分けて3つある。
一つ目は「食文化との連携」だ。
「日本海が至近の距離にあることから、魚介類が実に豊富です。しかも新鮮この上ない。大型旅館では珍しいことですが、卸売市場の仲買権を持っていますので、魚介類や野菜は市場に直接買い付けに行ってます。
また、地元の酒蔵の岡崎酒造さんと米の配合を相談して決定した、当館でのみ味わえる日本酒『純米吟醸 音信』を開発したり、萩で採れる天然海藻を伝統製法(手摘み・天日干し)で作るこまめ小町さんと連携して、朝食で提供するオリジナル食品の『青のり蒲鉾』を開発しました。実は、長門市は養鶏が盛んでして、焼鳥文化が根付いています。連泊の外国のお客様たちを街の焼鳥屋さんにご案内すると大変喜ばれます」
「別邸音信」での一品。すべての品に作家ものの器を合わせている。
二つ目は「場所の文化資本との連携」である。
「長門湯本からほど近い深川(ふかわ)窯には5軒の窯元がありまして、その深川萩焼を作る5家は創業時以来からのお付き合いです。板倉新兵衛窯、田原陶兵衛窯、新庄助右衛門窯、坂倉善右衛門窯、坂田泥華窯です。萩の三輪休雪窯、天龍山窯(てんちょうざんがま)の兼田昌尚さん、金子司さんとも昵懇にさせていただいています。そして、ガラス作家の西川慎先生ですね。先生方の作品を館内のいたるところに展示してあります。
また、料理に合わせた器を共同開発させていただいておりまして、大谷山荘に隣接する『別邸音信』の『日本料理 雲遊』では、先生方の作品を取り入れたご夕食を提供しています。宿泊のお客様と一緒にアトリエを訪れる体験などもしていますが、とりわけ海外のお客様には好評ですね」
例えば、この夏の献立に使われたのは、お造りには田原崇雄氏の流白釉鉢、焼物には坂倉善右衛門氏の月煌彩器、温物には16代坂倉新兵氏の刷毛目蓋碗、揚物には坂倉一渓氏線紋平皿、すべてに作家ものの皿が合わせられていた。
「恩湯」では、住吉大明神が見守る中、岩盤から湧出する湯が見える。
ザバザバ流れる「生まれたての温泉」
三つめは「地域事業者との連携」だ。先の焼き鳥屋への客の送致もしかり。
「当館では、長門湯本温泉の象徴とも言うべき公衆浴場『恩湯(おんとう)』を、お客様に体験していただいております。施設の営業開始前の貸し切りプランがありまして、それですと、外国のお客様も気兼ねなくご利用いただけます。先日は、3日連続で貸切られたお客様もいらっしゃいました」
この『恩湯』の再生には3年の月日を要したが、それにはワケがあった。浴場を解体して精査してみると、掘削ではなく、岩盤から直接お湯が湧いている自然湧出温泉であることが判明した。それだけではなかった。
「実は浴槽の下から、もうひとつの泉源が出てきたのです。なんと足元湧出温泉でした。。
一般的に温泉がいちばん鮮度が高いのは地中にあるときです。一旦外に出ると、空気に触れて酸化が始まる。だから、温泉の鮮度は、泉源から浴槽までの距離にかかっているのです。足元湧出温泉の凄さって、その距離がゼロということです。それは酸化ゼロの『生まれたての温泉』で、国内でも稀有な自然資本だったのです」
凄まじいポテンシャルを秘めた温泉だったのだ。しかも背後には、神道と仏教が交わる神仏習合の600年もの歴史がある。この文化資本、歴史資本をいかにして現代に相応しい形で蘇らせるかにフォーカスした。お湯の成分はアルカリ性単純温泉で、浴槽に注がれる温度は36~38℃。ゆえに、30分ほどゆっくり浸かっていると、皮膚に温泉が染み込み、体の芯から温まるのだ。その存在は、まさに、長門湯本温泉の中核を成す「宝物」と言えるだろう。
「別邸音信」の美しいエントランス。円錐形の木組みが印象的なホールは、高台寺の茶室「傘亭」を模した。
「別邸音信」は一段上のラグジュアリーな館
「別邸音信」にも少しだけ触れておく。
大谷山荘に隣接する別邸が完成したのは2006年のこと。とても20年前の建物とは思えぬほどモダン・シックな数寄屋造りだ。ゲストは靴を脱いで玄関から先に進むが、敷き詰められた畳の感触を、足裏で直に感じられるところがいい。レセプションの奥に広がる空間はとてもゆったりとした造りだ。ライブラリーには地元の誇りでもある、画家の香月泰男や童謡詩人・金子みすゞの書籍をはじめ、趣味のいい美術全集などが並ぶ。13歳未満の入館を制限しているため、館内は静寂が保たれている。
ほかの施設として、茶室、大浴場、スパ施設「グランデスパ音信」、フィットネスジムが備えてある。「The Bar OTOZURE」では、夕刻のサービスタイムにスパークリングワインなどが提供される。客室はゆとりある敷地に、わずかに18室のみ。全室に源泉掛け流しの露天風呂も完備している。なにしろ、ご飯もこの上なく美味しく、至れり尽くせりの宿だと言うことができるだろう。
顧客にお喜びいただくために
ミシュランガイドで「別邸音信」が2年連続で一つ星、ゴ・エ・ミヨ日本版第2号出版を記念した表彰でホスピタリティ賞受賞、Forbes Destinations of the Year 2026 The 30 Collectionにて選出、JTB 「サービス最優秀旅館・ホテル」大規模施設の枠にて、最優秀旅館を受賞(6回)、じゃらんアワード2025 中国・四国ブロック「泊まってよかった宿大賞(総合)」受賞など、高い評価を得ている。
「実際的には、このエリアの暮らしをつくり、文化をつくっていくには、数十年はかかろうかと思います。この場所らしい『生活文化』こそ、顧客が望まれていることだと感じてます。地域の皆様とともに、エリアの価値をさらに高め、長門湯本温泉の雰囲気を好まれる潜在的な顧客に訴求し、お越しいただける流れをつくっていきたいです。さらには連泊滞在型エリアとして、ともに発展していけたらと思います。萩・秋芳洞など周辺観光地への周遊も促すことで、さらなる地域貢献を目指したいですね」
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