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Portraits

フェンシング界を変えた、太田雄貴の革命(後編)

2020.1.17

最新テクノロジーを味方にして、太田雄貴はフェンシングの新たな楽しみ方を提案する

これまで太田が取り組んできた数々の施策の中で、最も重要なテクノロジーがある。数々のメディアアート作品を手がけるライゾマティクスリサーチと電通との共同開発による「フェンシング・ビジュアライズド」だ。人間の視覚では追いきれない高速に動く剣先を検出し、AR技術を用いてリアルタイムで合成し、即時に剣先の軌跡を可視化して映像に映し出すこのテクノロジーは、長年分かりづらいと言われ続けてきたフェンシングの「観る」スポーツとしての可能性を大きく高めることに成功した。

 

このテクノロジーは、東京オリンピック2020のプレ大会と位置付けられていた高円宮杯 JALフェンシングワールドカップ(2019年12月13〜15日に幕張メッセで開催)でも導入された。無事に成功を収めたことで、東京オリンピック2020での採用に向けて大きく前進したと言えるだろう。

フェンシングの剣先の軌跡を可視化する「Fencing Visualized(フェンシング・ビジュアライズド)は、電通、ライゾマティクスリサーチと共同開発された。

思い返せば、2013年に東京五輪の開催が決定した際のプレゼンテーションで、日本は「テクノロジーを駆使した最高のオリンピックにする」と宣言していた。にもかかわらず、東京オリンピックが間近に迫った現在も、各競技団体からは、新しいテクノロジーを導入するという話はほとんど聞かない。そんな状況なだけに、この「フェンシング・ビジュアライズド」にかかる期待は大きい。

 

日本が東京オリンピックに向かう意味、そしてその先の未来

一方で、新国立競技場問題に端を発した、東京オリンピックにまつわるネガディブな話題は、今も終わりをみせない。オリンピック招致にプレゼンターとして大きく関わった太田は、いま何を思いながら東京オリンピック、そしてその先の景色を見ているのだろうか。「明るいニュースが少ない中ですが、僕らは、自分たちでこのデカい国際的なイベントをやりきったんだという自信やプライドを取り戻す大会にしていくべきだと思っています」。こう語る太田だが、その目は、すでにオリンピックの先を見据えている。各競技団体が、東京オリンピックへの文脈を強める中、日本フェンシング協会は、10月27日の理事会で2022年に世界選手権を日本に招致する方針を固めた。すでに先を見据えている先見性も“太田らしさ”を感じざるをえないが、この方針決定には、太田が描くフェンシング界の未来が見え隠れする。


企業とのコラボレーションの企画書を週末に受け取って週明けにはやることを決断したというほど、決断は早いと太田は語る。 企業とのコラボレーションの企画書を週末に受け取って週明けにはやることを決断したというほど、決断は早いと太田は語る。

企業とのコラボレーションの企画書を週末に受け取って週明けにはやることを決断したというほど、決断は早いと太田は語る。

「いま、各競技団体は、東京オリンピックを目掛けて頑張っています。息切れしながらも、“山頂はあそこだ!”みたいな感じで。でも、僕ら競技団体は、オリンピックの何に携わっているかと言ったら、間違いなく強化だけなんですよ。マーケティングなんて当然手伝っていません。なぜなら、オリンピックって、スポンサーのロゴが出せないので、自分たちでお金を集めることもしないわけです。集客だって、フェンシングでさえもチケットの売れ行きは好調なので、やる必要がない。つまり僕らがコミットしているのは強化だけなんです。でも、2022年に世界選手権を招致するとなると、フェンシング協会として必要な能力は、強化だけではなくなります。お金も集めなければならないし、自治体との交渉、放映権周りの交渉、大会運営など、さまざまな能力が試されることになります」

 

これまで、フェンシング全日本選手権の改革を進めながら得たノウハウと、東京オリンピックという国際大会の開催で得た経験、この2つを掛け合わせ、2022年の世界大会まで突っ走ろうというのだ。このような強烈なリーダーシップと、ファーストペンギンとしてのメンタリティはどこで育まれたのだろうか「小さい頃から、人と一緒というのが嫌いでしたね。“えっ、みんなと一緒なのイヤじゃん”みたいな(笑)。小学校の時も、ピンクの服を着て学校に行っていたし、みんなが右に行ったら左に行くタイプでした。担任の先生や親を困らせていたと思います。だから、みんなが野球やサッカーをやっている時にフェンシングをやるっていうメンタリティな訳ですよ(笑)」こう言いながら笑い飛ばす。フェンシング界の枠を飛び越え、スポーツ界全体に新たな風を送り続ける男は、この先、我々にどんな景色を見せてくれるのだろうか。

 

⇨フェンシング界を変えた、太田雄貴の革命(前編)へ

 

(敬称略)

太田雄貴 Yuki Ota

2007年、同志社大商学部卒業。フェンシング・男子フルーレで2004年のアテネオリンピックから4大会連続オリンピック出場。2008年北京オリンピックで日本史上初の銀メダルを獲得。2012年ロンドンオリンピックでは団体で銀メダルを獲得。2015年世界選手権で日本史上初の金メダルを獲得。2016年リオデジャネイロオリンピック後、現役を引退。2017年8月に、公益社団法人日本フェンシング協会の会長に就任。2018年12月、国際フェンシング連盟副会長に就任。日本アーバンスポーツ支援協議会副会長なども務める。

Photography by Yoshiaki Tsutsui
Text by Taisuke Segawa

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