太田雄貴

Style

Portraits

フェンシング界を変えた、太田雄貴の革命(前編)

2020.1.10

フェンシングがエンターテイメントに。スポーツ界の革命児、太田雄貴の挑戦

暗闇から剣先がぶつかる金属音が耳元に迫ってくる。隙間を縫うようにリズミカルなデジタル音が合流する。ステージ上に設置された巨大なLEDディスプレイには、リズムに合わせて線状の光が波打ち、クイーンの名曲「We Are The Champions」の聞き慣れたフレーズが、高揚感を煽るように、心を刺激してくる。その刹那、暗闇の中からフワっと浮かび上がってきたのは、フェンシングの衣装を着たダンサーたちだった。

 

ステージには紗幕(光が透過する薄手の幕)がかけられ、映像と光と音が交錯する。幻想的なステージ演出の中で、ダンサーたちは激しくそして規律正しく、踊る、また踊る。

大音量で鳴り響いていたダンスミュージックがピタリと止み、同時にダンサーたちが切れ味鋭い動作でポーズをキメると、紗幕はゆっくりと引き上げられた。そこにくっきりとした輪郭で姿を現したのは、全日本選手権決勝の舞台に出場するフェンシングの選手たちだった。

従来のスポーツ観戦からの脱却、その原点にあるもの

日本フェンシング協会の太田雄貴会長は、これまでフェンシング全日本選手権で様々な挑戦を行ってきた。この大会のオープニングから派手な演出を行うのは、集まった観客を先鋭的なエンターテインメントの世界に誘うためである。「プロ野球やJリーグ、Bリーグといったメジャースポーツと同じ土俵で戦わないためにも、フェンシングを、スポーツからアート・芸術に拡張させる必要がありました」。こう語る太田が、大会の改革に情熱を燃やすきっかけは、2016年の全日本選手権で見た光景にあった。

ルールが複雑で、スピード感あるフェンシングはわかりにくいスポ―ツであると語る太田。だからこそ人々の関心を集める方法を模索していると話す。 ルールが複雑で、スピード感あるフェンシングはわかりにくいスポ―ツであると語る太田。だからこそ人々の関心を集める方法を模索していると話す。

ルールが複雑で、スピード感あるフェンシングはわかりにくいスポ―ツであると語る太田。だからこそ人々の関心を集める方法を模索していると話す。

現役時代、太田は、オリンピックでメダルを取ることができれば、フェンシングをメジャースポーツに押し上げることができると考えていた。2008年の北京オリンピックの個人戦で銀メダルを獲得すると、積極的にメディアに出ては、その魅力を語り、スポークスマンとしての役割を担った。2012年のロンドンオリンピックでは、団体戦で銀メダルを獲得、さらに2015年の世界選手権では、日本人として史上初の優勝を飾った。だが、これだけメダルを獲得しても、世間の関心がフェンシングに向けられることはなかった。

 

2016年のリオデジャネイロオリンピックでの敗戦を機に太田は引退を決意。そして、その年の全日本選手権で見た光景に言葉を失った。決勝戦の観客は、わずか150人。空席だらけの会場を見回したときのことを、太田はこう振り返る。「オリンピックでメダルを取れば、メジャーになるという幻想から完全に目が覚めました」。選手たちに、満員の観客の中で試合をさせる。太田のやるべき方向性がはっきりと定まった瞬間だった。

太田雄貴が仕掛ける創造と破壊

2017年8月、太田は、31歳という異例の若さで日本フェンシング協会の会長に就任すると、さっそくその年の全日本選手権の改革に着手した。LEDを用いて、どちらにポイントがついたのかをわかりやすく表示する演出をしたり、観客が場内ラジオで試合の解説を聴けるようにしたりするなど、たったの4ヶ月で、21の施策を実施。その効果はすぐに現れ、決勝戦では1600人もの観客を集めることに成功した。さらに、翌2018年には、決勝戦の会場を東京グローブ座に移し、それまで1000円だったチケット代金を、S席で5500円と、マイナースポーツの観戦チケットとは思えない高価格に設定した。


日本スポーツ協会(JSPO)と日本オリンピック委員会(JOC)が入る、昨年完成したJAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE(ジャパン・スポーツ・オリンピック・スクエア)内にて。 日本スポーツ協会(JSPO)と日本オリンピック委員会(JOC)が入る、昨年完成したJAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE(ジャパン・スポーツ・オリンピック・スクエア)内にて。

日本スポーツ協会(JSPO)と日本オリンピック委員会(JOC)が入る、昨年完成したJAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE(ジャパン・スポーツ・オリンピック・スクエア)内にて。

体育館でのスポーツ観戦というスタイルからの脱却を図り、非日常的な劇場型スポーツ観戦体験を提供した。その結果、チケットは40時間で完売。マイナースポーツの観戦チケットをわずか2日足らずで完売させたことは、日本のスポーツ界にとって、まさにエポックメイキングな出来事となった。

 

さらに2019年大会は、会場をLINE CUBE SHIBUYA(渋谷公会堂)に移し、S席で6000円、さらに決勝戦を2日に分けて開催した。2日通し券を販売するなどし、2日間で合計3000人以上にフェンシングの観戦体験を提供するまでに成長した。太田はこれまでの3年間の改革を以下のように振り返る。

 

「興行収入の基本は客単価×客数。1年目は客数に気合いを入れました。2年目は客単価で頑張って、客数は抑えた結果、チケットを40時間で完売させることに成功しました。そして3年目は、会場を渋谷公会堂に移し、客単価と客数の掛け算ができた。しかも2日間の開催にしたことで、最大で4000人の人に観てもらえるまでに可能性を広げることができた。ここまで出来るようになったことは、誇って良いんじゃないかと思います」。

 

⇨フェンシング界を変えた、太田雄貴の革命(後編)へ
(敬称略)

太田雄貴 Yuki Ota

2007年、同志社大商学部卒業。フェンシング・男子フルーレで2004年のアテネオリンピックから4大会連続オリンピック出場。2008年北京オリンピックで日本史上初の銀メダルを獲得。2012年ロンドンオリンピックでは団体で銀メダルを獲得。2015年世界選手権で日本史上初の金メダルを獲得。2016年リオデジャネイロオリンピック後、現役を引退。2017年8月に、公益社団法人日本フェンシング協会の会長に就任。2018年12月、国際フェンシング連盟副会長に就任。日本アーバンスポーツ支援協議会副会長なども務める。

Photography by Yoshiaki Tsutsui
Text by Taisuke Segawa

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