ルイ・ヴィトン、ディオール、セリーヌ、ティファニー……。誰もが憧れる数多くの高級ブランドを傘下に持つ、フランスのラグジュアリーブランドグループ、それが「LVMH」である。正式名称を「LVMH モエ ヘネシー・ルイ ヴィトン」とするこの世界的大企業の日本のトップがノルベール ルレ氏だ。成長著しい日本での「LVMH」のビジネス戦略もさることながら、「LVMH」日本トップとはどんな方なのだろう。そんな素朴な疑問の手がかりを得るために、まずはルレ氏の少年時代から話をおうかがいしてみた。
「私、そうとうフランス語うまいですよ」30年以上に及ぶ日本での生活で身に着けた流暢な日本語で繰り出されるジョークと朗らかな笑顔、時にはダジャレまで。1時間弱というインタビューは、終始和やかな空気で進んだ。
フランス中北部の都市、オルレアン育った少年時代
「私は1961年、ボルドーの東側に位置するベルジュラックで生まれました。ワインの産地で知られる場所です。そして6歳のとき、オルレアンというパリの南西130キロほどの街に引っ越してきました。そこで17年間ほど住んでいましたが、一番印象に残っているのはオルレアンの街の商店街です」
「それほど大きな街ではありませんでしたが、通りにはパン屋さん、肉屋さん、魚屋さん、本屋さん、薬局、楽器屋さん、お菓子屋さんなど、さまざまなお店が並んでいました。もちろんどれも個人商店です」
ルレ氏の父は、オルレアンの自宅敷地の一部を医院とする開業医。母はその自宅でパーティを開くことも多かった社交的な性格。そしてルレさんの習い事はバイオリンとバレエ。両親をはじめとするルレ家の人々は、オルレアンでは名士的な存在だった。
「父は診察の時は白衣を着ていましたが、白衣の下はいつもスーツです。そのスーツを誂えるのは商店街のテーラーでした。幼い私も時々父にくっついて行き、父とテーラーの主人とのやり取りを見ていました」
鮮明な記憶となって残る、活気溢れるオルレアンの商店街
「テーラーだけではありません。商店街を父や母と歩いていると、方々のお店から声がかかります。『今日はいい魚が入ったよ』『ローストビーフが焼きあがったよ』『今度のパーティではどんなお菓子をご用意しましょうか』。店の人と両親が楽しそうに交わしていたこうしたやりとりや、活気に満ちた商店街の雰囲気。今でも鮮明に覚えています」
少年時代に何度も足を運んだオルレアンの商店街の活気や交流。その記憶は、単なる懐かしい思い出に留まらず、やがてビジネス界に泳ぎ出していくルレ氏に少なからぬ影響を及ぼした。もっとも、両親に連れられて商店街を歩くルレ少年は、そんなこと知るはずもなかったが……。


笑いのツボを的確に押さえることができるほど、日本語を巧みに話すルレ氏。思わずルレさんと呼びたくなるような親しみやすさが魅力。
20歳で訪れた日本。人生を変えた4か月の滞在
多感な少年期を経て、ビジネススクールに進んだルレ氏は、当初はヒューマンリソース、いわば人事方面の仕事を目指したが、やがてマーケティングや物作りの分野でのフルマネジメントに興味が移っていった。
フランス国内でのインターンシップを経たルレ氏に大きな転機が訪れた。海外でのインターンシップを兼ねた上智大学でのサマースクール体験である。1981年7月、20歳になったばかりの青年が日本にやってきた。日本を選んだのには理由があった。
「父の家は代々ボルドーに続く、歴史ある家柄でした。母と母方の祖母はフランス人ですが、じつはベトナム生まれのベトナム育ち。母が初めてフランスに来たのは、彼女が19歳の時でした。以来、母も祖母もフランスで暮らすのですが、私は、幼いころからアジアの素晴らしさや魅力を二人からいつも聞かされてきました。そんな二人のもとで育ちましたから、海外に行くならばアジアと決めていて、しかもその当時、国として勢いのあった日本を迷うことなく選びました」
アンカレッジ、ソウルを経由する25時間のフライトを経てようやくたどり着いた日本。当時の日本は「ジャパン アズ ナンバーワン」という言葉が物語るように、世界が注目する豊かな国だった。
「日本語はほとんどとわかりませんでしたが、どこへ行っても街はきれいだし、人は優しい。しかも、フランスのことにとても興味を持ってくれます。フランス文学に詳しい方が多いのにも驚きました。4か月という短い間でしたが、毎日が刺激的で面白く、日本という国がすっかり気に入ってしまい、将来は日本で働こう、そう決心しました。奥さんと出会ったのもこの時です」
ルレ氏は少し照れくさそうに笑う。なんと、日本到着翌日に出会った日本女性が、生涯の伴侶となった。若き日のこの4か月の滞在が、ルレ氏の人生を文字通り決定づけたといえよう。
大阪北新地のクラブで覚えた演歌「大阪しぐれ」。教えてくれたのは、関西経済界の巨頭
ビジネススクールを22歳で終えたルレ氏は、大阪のフランス総領事館の経済部に職を得ることができた。西日本を拠点とする日本企業へのフランス投資提案が主な仕事だった。
「私が歌うことのできる日本語のカラオケがあります。なんだか分かりますか?」
ルレ氏が、突然いたずらっぽく問い掛けてきた。答えあぐねていると……。
「『大阪しぐれ』です。しかも教えてくれたのは、当時サントリーの社長だった佐治敬三さんです。北新地のクラブでした」
関西経済人のフランス視察を、懇切丁寧にお膳立てしたルレ氏へのお礼として、佐治さんが一席設けたときのことだった。それだけではない。京セラの稲盛和夫さんが祇園のお茶屋さんへ連れていってくれたり、辻調理師学校の辻静雄さんのレクチャーのもと、最高級のフランス料理を味わう機会もあった。
すべてルレ氏が20代のときのことである。当時はまだ拙い日本語だったものの、虚心坦懐に人の懐に飛び込むルレ氏の明るい人柄と、溢れんばかりの日本愛が、錚々たる経済人や文化人の心に響いたに違いない。また、こうした人々との出会いが、ビジネスマンとしてのルレ氏の幅広い視野や人脈を形成していった。
20代後半で、一度フランスに数年ほど戻ったルレ氏は、1997年に「ケンゾー・ジャパン」のマーケティングディレクターとして、日本を拠点とする生活を再び開始した。
その後「アシェット婦人画報社(現在のハースト婦人画報社)」「ザラ・ジャパン」の社長を経て、2006年に「LVMHジャパン」の社長就任となった。じつは「ケンゾー・ジャパン」は「LVMH」傘下だ。したがってルレ氏にとっては、「LVMH」に戻ってきたこととなる。
「『ケンゾー・ジャパン』にいたころから、グループとしての『LVMH』の方向性がとても素晴らしいと感じていましたから、『LVMHジャパン』トップのお声がけをいただいた時は、とても嬉しかったです」
ルレ氏が、とても素晴らしいと感じていた「LVMH」の方向性とは何なのだろうか?
新店舗の出店は、まるで凱旋門を建てているような気分
「私たちは、業種で言えばリテール、つまり物を売る側の人間ですが、物だけでなく文化を皆様に届ける仕事、と考えています。たとえば東京や大阪を中心に、日本各地に展開する店舗がそうです。立地選定から始まり、外装、内装すべてに少なからぬ予算を投下し、かなり立派な空間を創り出します。そこにはフランスのスタッフだけでなく、妹島和代さんや坂茂さんなど日本を代表する建築家やデザイナーも加わります」
「こうしてできあがった店舗は、単なるショップではなく、文化を発信する場所してその街に貢献していきます。しかも長期間にわたっての発信となります。少し大げさかもしれませんが、文化発信の場としての凱旋門を毎回作っているような気分です。短期的ではなく、こうしたロングタームのビジョンを持ってビジネスに取り組んでいることが、『LVMH』の特徴であり、成功している秘訣のひとつだと思います」


日本の素晴らしい職人技を持つ工房との提携
もうひとつの成功の秘訣を語ってくれた。
「日本の文化をリスペクトしているところだと思います。日本が持つ古くからの歴史や、その歴史が育んできたさまざまな文化に対し、やはり古くからの歴史を持つ国であるフランスの企業として、大きな敬意を払っています。また、世界中の伝統工芸や職人の技に着目し、『LVMH メティエ ダール』という組織を2015 年に設立。ものづくりに欠かすことのできない優れた技術や、サヴォワールフェール(伝統的な匠の技)を持つマニュファクチャーや、職人たちのコミュニティを形成し、その継承と発展を目指しています。」
「日本では『LVMH メティエ ダール ジャパン』を設立し、まずは岡山のデニム生地メーカ『クロキ』さん、そして京都西陣の『細尾』さんと提携し、日本独自の素晴らしい技術を、ともに高めていくプロジェクトを進めています」
思い出の地、大阪で開催される「大阪・関西万博」
ルレ氏が、近年大きな楽しみにしていた案件がある。それは、4月13日に開幕した「大阪・関西万博」だ。「LVMH」はフランスパビリオン内で、大規模な出展をしている。
「フランス館はおよそ4,000平米とかなり広く、フランスらしく『愛の賛歌』がテーマです。パビリオンを入ったすぐのところには『ルイ・ヴィトン』、そしてフィナーレとなる出口の場所には『ディオール』が期間中それぞれ常設の大きな展示を行っています。また『セリーヌ』は4月13日から5月12日まで、『ショーメ』は9月1日から10月13日まで特別展示を予定しています。館内のレストランでは、もちろん『モエ ヘネシー』からシャンパンを提供します」


「愛の賛歌」をテーマにした「大阪・関西万博」のフランス館は、数ある海外パビリオンの中でも、とりわけ注目を集めている。(©LVMH)


「大阪・関西万博」のフランス館で 、ひときわ話題を呼んでいる「ルイ・ヴィトン」の展示風景。(©LVMH)
「このように、『LVMH』はフランス館のメインパートナーとして卓越した職人技と創造性を讃え、その歴史や伝統、文化的価値を伝えます。私が20代を過ごし、さまざまな思い出のある大阪。そんな大阪の地で、ほぼ40年後に万博が開催され、それに参加できることは、大きな喜びです。皆さん、ぜひ『愛の賛歌』に”参加”してください」
「関西・大阪万博、」への出展だけではない。2025年には「ロエべ」と「ティファニー」の旗艦店が銀座に、2026年には大阪に「ショーメ」「フェンディ」「ディオール」の旗艦店が次々と誕生する予定だ。これに加え、百貨店での新展開や、さまざまなイベントなど、「LVMHジャパン」全体として、各ブランドのさまざまな取り組みが相次ぐ。
退屈することのできない、刺激的な毎日
「毎日毎日が面白く、退屈することができないんですよ。日本の代表になって今年で9年。困ったことや、どうしてこんなことになってしまったんだろう、と思うことはありましたが、退屈したことは9年間一度もありません。初めて日本へ来た時のように、刺激的な毎日の連続です」
「LVMH」は、現在75以上の卓越したブランドで構成され、それぞれのブランドが独自の歴史と哲学を持っている。なかには、競合するブランド同士もある。そんな数多くのブランドと日々接する際、次から次へと生ずる案件に、ルレ氏はどのように指示判断を下し、捌いているのだろうか。素朴な疑問を訊いてみた。
オルレアンの商店街の薬局にあった引き出し
「オルレアンの商店街には薬局がありました。お店の中には、数多くの引き出し持つ棚があり、ひとつひとつの引き出しのなかに、それぞれ違う薬が入っていました。お店の人は、必要に応じて引き出しを開け、てきぱきと薬を取り出して調合し、お客さんに手渡してくれます。私の頭の中も、たとえるならばそんな感じかもしれません。『ルイ・ヴィトン』の引き出しは、ちょっと大きいですけどね」
出張で地方に出向いた時も、ルレ氏は時間があればその土地の繁華街や商店街を見てまわるそうだ。
「商店街の活気や、人と人とのやりとり、そこで交わされる会話を見ているのが好きなんでしょうね。それが、どこかでビジネスに役立っているのかもしれません」
オルレアンの商店街の記憶は、ルレ氏の中では決して薄れることなく息づき、そこに日本でのさまざまな体験も加わり、さらに補強されていく。その補強が、ルレ氏の頭の中の引き出しをこれからもよりパワフルに、より多彩にしていくに違いない。


ルレ社長と島村、ともにブランドビジネスの今後について意見を交わしていた。
ノルベール ルレ Norbert Leuret
1961年フランス生まれ。「LVMH モエ ヘネシー・ルイ ヴィトン・ジャパン合同会社」社長。1981年上智大学サマースクール参加。その後再来日し在日フランス大使館勤務を経て帰国。1997年に再来日し「ケンゾー・ジャパン」のマネジング・ディレクター、社長を経て、2003年「アシェット婦人画報社(現在のハースト婦人画報社)」社長、2006年「ザラ・ジャパン」取締役兼CEOに就任。2016年より現職。
島村美緒 Mio Shimamura
Premium Japan代表・発行人兼編集長。外資系広告代理店を経て、米「ウォルト・ディズニー」や「ハリー・ウィンストン」、 「ティファニー&Co.」などのトップブランドにてマーケティング/PR の責任者を歴任。2013年「株式会社ルッソ」を設立。様々なトップブランドのPRを手がける。実家が茶道や着付けなど、日本文化を教える環境にあったことから、 2017年にプレミアムジャパンの事業権を獲得し、2018年「株式会社プレミアムジャパン」を設立。
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