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永遠の聖地、伊勢神宮を巡る

2025.1.31

伊勢神宮は、なぜ日本人の「心のふるさと」と呼ばれるのか?





約2000年の歴史を有し、日本人の「心のふるさと」と称される伊勢神宮。20年に一度の伊勢神宮最大のお祭りである「式年遷宮」が2033年に行われることから、2025年よりその準備がはじまる。
そこでPremium Japanでは、この機会を通じ、伊勢神宮の基本的な知識と魅力に加え、「式年遷宮」に向けた伝統的な儀式などを紹介していく。

 

日本人にとって特別な聖地とされる伊勢神宮を、より深く知ることができる連載である。

 




きっぱりとした冷たい空気。シャンパンゴールドに輝く陽の光。

1月、早朝の伊勢神宮はとりわけ神々しい。参道を歩く人たちの表情もどこか晴れ晴れとしていて、新しい年を迎えた初々しさのようなものが感じられる。

 

伊勢神宮の初詣は、松の内(=元日から7日まで。地域によっては15日まで)だけでなく、旧正月(=旧暦の1月1日)まで続くという。特に鏡開きにあたる1月11日は、伊勢神宮に属する125社すべての御祭神が、主祭神である天照大御神のもとに一堂に会し、ともにお食事をされる、年に1度の貴重な機会。午前10時から始まる祭祀では、多くの神職によって神様にお食事がお供えされる。

 

……と、ここまで一気に書いてしまったが、途中で驚いた人もいるだろう。「伊勢神宮って125社もあるの?」と。








“美し国(うましくに)”三重県伊勢市にある、125ものお社を擁する「伊勢神宮」

 

 

三重県の東に突き出た志摩半島の、北東部に位置する伊勢市。
この地に鎮座する伊勢神宮の中心は、天照大御神をおまつりする「皇大(こうたい)神宮」、通称「内宮(ないくう)」と、豊受大御神(とようけのおおみかみ)という、天照大御神のお食事を司どる神様をおまつりする「豊受大神宮」、通称「外宮(げくう)」の2つのお宮。




加えて、14の別宮(べつぐう)と43の摂社、24の末社、42の所管社の、計125のお社から成り立っている。
それぞれの説明や御祭神については次回に譲るものの、すべてのお社が内宮、外宮の宮域内にあるわけではなく、三重県の4つの市と2つの郡に点在している。
しかも、内宮と外宮の間も直線距離で4kmほどと、少し離れている。

 

一口にお伊勢参りと言っても、その背景には、歴史も含めて壮大な世界が広がっているのだ。




内宮の御正殿へと向かう石段。 内宮の御正殿へと向かう石段。

内宮の御正宮へと向かう石段。






「神宮」と「神社」の違いとは?

 

 

名称も、正式には「神宮」のみ。伊勢神宮は通称という。ちなみに、「宮」とは「御屋(家)=みや」のこと。一方、神社は「屋(家)代=やしろ」が語源で、「代(しろ)」は土地を指すという。

 

古代は祭祀をするごとにお社を建て、そこに神々をお招きしてお供えや祈りを捧げていたことから、神社は本来、神様をおまつりする仮の施設、という意味だった。

 

対して「宮」は、常設の施設。古代からの歴史を持ちながら、常に神様がおまつりされているとは、いかに稀有で特別か、神宮という名称からもうかがい知ることができる。







お供えするお米や野菜、土器、衣服まで……すべてが自給自足
日本の暮らしが継承される、日本の原点

 

 

もっとも、細かいことを知らなくても、すがすがしい神域の空気を吸いながら長い参道を歩き、御祭神が鎮座する御正宮の前で手を合わせる、それだけで、なんだかありがたい気持ちになって、良いことが起こりそうな気がしてくるのが、お伊勢参りの不思議。
風が木々を揺らす音、五十鈴川の清らかな瀬音。自然の音にも心洗われる想いがする。

 






神宮では、五十鈴川の水を利用して、神様にお供えする稲や野菜が育てられている。つまり、自給自足が原則なのだ。お供えものを盛る素焼きの土器も、土器調製所で作られ、毎日朝と夕の2度、神々にお食事をお供えする祭祀が行われている。

 

天照大御神の衣服も、織子たちによる手製。絹と麻の2種類の布が機殿(はたどの)で織られ、春と秋に新調される。加えて、両宮の御正殿の建物は、「唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)」という日本古来の建築様式で、もとは稲などを納めていた高床式の穀倉が発展したものという。






両宮の御正殿へのお参りは、外玉垣南御門(とのたまがきみなみごもん)の前で。時折風が起こり、白絹の御帳(みとばり)が静かに上がる。 両宮の御正殿へのお参りは、外玉垣南御門(とのたまがきみなみごもん)の前で。時折風が起こり、白絹の御帳(みとばり)が静かに上がる。

両宮の御正宮へのお参りは、外玉垣南御門(とのたまがきみなみごもん)の前で。時折風が起こり、白絹の御幌(みとばり)が静かに上がる。






手水に使う、柄杓(ひしゃく)が並ぶ。 手水に使う、柄杓(ひしゃく)が並ぶ。

手水に使う、柄杓(ひしゃく)が並ぶ。






天照大御神が伊勢の地に鎮座されて約2000年。その間、世相や人々の暮らしは大きく変わり、今や生成AIが席捲しつつある時代にあって、今なお古式に則り、祭祀が日々、粛々と行われている。
それが神宮であり、言い換えれば、日本という風土に根づいた暮らしや文化を、今も実践し続けている場所、とも表現できる。

 

 

参拝するたび、いつもすがすがしい気持ちとともに心が安らぐのは、かつては当たり前のように存在していた豊かな自然を身近に感じながら、感謝と祈りを捧げるという、日頃忘れかけている日本人の原点とも言うべき姿を細胞の一部が思い出し、無意識のうちに共鳴しているからかもしれない。






「三種の神器」に秘められた、伊勢神宮と皇室のつながり

 

 

もっとも、神宮が古式の祭祀を守り続けてこられたのは、ひとえに主祭神である天照大御神が、皇室の御祖先にあたる皇祖神(こうそしん)であることが最大の理由にある。




『古事記』や『日本書紀』によれば、神々が住むとされる高天原(たかまのはら)から、天照大御神の御魂が宿る「八咫鏡(やたのかがみ)」をはじめとする3種類の宝物、つまり、「三種の神器(じんぎ)」を託されて地上に降り立ったとされるのが、天照大御神の孫にあたる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)で、その瓊瓊杵尊のひ孫が、初代天皇である神武天皇とされているのだ。

 

そして、この瓊瓊杵尊が地上に降り立って以来、「八咫鏡」は天照大御神の御神体として、代々天皇のおそばでおまつりされてきた。
それがなぜ、当時の都である大和の国(現在の奈良県)から、この伊勢の地に遷(うつ)されたのだろう。



伊勢湾を眺める 伊勢湾を眺める

伊勢湾を眺める。






ことの発端は、第10代崇神(すじん)天皇の御代に、国中に疫病が蔓延し、多くの民が亡くなったことにある。
当時大和の国にある三輪山の麓で国を治め、篤く神々をおまつりしながら天下泰平の基を築いていた崇神天皇は、この国難を乗り越えるべく、それまで皇居でおまつりし、畏れ多いと感じていた「八咫鏡」を、皇居外のふさわしい土地にまつることを決意された。

 

 



最初は天皇の御子である豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)が、天照大御神の「御杖代(みつえしろ=神の杖代わりとなって奉仕する者)」となって鎮座にふさわしい地を求めて旅をされ、その後、第11代垂仁(すいにん)天皇の御代に、やはり天皇の御子である倭姫命(やまとひめのみこと)が跡を継ぎ、各地を巡られたと『日本書紀』には書かれている。




畿内各地に「お伊勢さん」が存在するわけとは

 

長年にわたって2人の皇女が、現在の京都府や大阪府、兵庫県、岡山県、和歌山県といった、都の西方にあるさまざまな地を経て、滋賀県、岐阜県、愛知県、そして三重県と、東方の地を巡る旅をされたのは、天照大御神をおまつりするにふさわしい場所を探す目的も、もちろんあったに違いない。
だがその一方、それぞれの地に住む豪族たちと話し合いなどを行い、大和朝廷に従うという約束を交わしていったのではないか、という現実的な解釈も成り立つ。

 



その流れは、天照大御神が伊勢の地に鎮座された後も、倭姫命の甥である日本武尊(やまとたけるのみこと)に引き継がれ、関東の平定につながっていったのでは……? そんな話を、以前、とある元伊勢の神社、つまり、天照大御神が各地を巡られた際に、途中で一時的におまつりされたと伝わる神社の宮司から、「あくまで私見だが」という前置きとともに聞いたことがある。

 

神話はけっして荒唐無稽なものではなく、後世になんらかのメッセージを伝えている広がりある世界だということを、そのとき知った。





年間のお祭りは約1500回。日本の安泰と私たちの幸せを日々祈り続けている聖地

 

 

『日本書紀』」によれば、長い旅を経て伊勢の地に至った天照大御神は、倭姫命にこう告げたという。

 

「この神風の伊勢の国は、遠く常世から、波が幾重にも寄せては帰る国である。都から離れた傍国(かたくに)ではあるが、美しい国だ。この国にいようと思う」と––––。


「常世」とは、永遠が約束された理想の世界。古代の人々は、太陽は毎日東の海にある常世で生まれると考え、東の海に近い伊勢の地に天照大御神をおまつりすることで、太陽にもたとえられるその御神徳が、より高まると考えたのではないか、とする説もある。

 

ともあれ、倭姫命は天照大御神のお告げを受け、五十鈴川の川上に祠を建てた。神宮の長い歴史のはじまりである。




五十鈴川から宇治橋を望む。宇治橋は神域と俗界との結界でもある。 五十鈴川から宇治橋を望む。宇治橋は神域と俗界との結界でもある。

五十鈴川から宇治橋を望む。宇治橋は神域と俗界との結界でもある。






五十鈴川 五十鈴川

冬の五十鈴川。倭姫命は天照大御神をおまつりする祠の他に、祭祀をする際に、自身が心身を清めて籠る場所として斎宮(さいぐう)を建て、祠と斎宮を合わせて磯宮(いそのみや)とされた。この「磯」が後に訛って、「伊勢」となったとも言われている。






以来神宮では、歴代の天皇陛下に代わって、皇室の祈り、つまり、天下泰平、五穀豊穣、子孫繁栄など、国の安泰とともに、国民の幸せを願う祈りを皇祖神に捧げ、日々、祭祀を行ってきた。
つまり、本来神宮は、本来個人が自分のために祈りを捧げる場所ではないということだ。参拝できるのも、貴人や武将だけという期間が長く、天皇陛下も、明治時代になってはじめて御参拝されるようになったという。

 

ちなみに、現在年間に行われている祭祀の数は、約1,500! 知らないところでこれほどの回数、国の安泰と国民一人ひとりの幸せを祈ってくれているとは、なんとありがたく、また心強いことだろう。






1月11日御饌祭のために参道を進む神職たち。 1月11日御饌祭のために参道を進む神職たち。

1月11日、「一月十一日御饌」のために参道を進む神職たち。






民衆が伊勢参りをするようになってから700年あまり
今も日本人が伊勢を目指す理由

 

一方で、一般庶民の参拝、つまりお伊勢参りは、平安時代の終わり頃から始まっていたという。もっとも、盛んに行われるようになったのは、交通網が発達した鎌倉時代から。
折しも、当時ユーラシア大陸全域を震撼させていたモンゴル帝国が、弘安4年(1281)に日本に侵攻。
その際、内宮と外宮に鎮座する風の神に祈りを捧げたところ、突如風が起こり、モンゴル軍の船が撤退を余儀なくされたことから、神風を吹かせて日本を守ったという伝説が広まったという。

 

神宮の御祭神は皇室の皇祖神であるとともに、国民一人ひとりとりを守護してくれるという認識が、庶民の間に生まれたのだ。

 





長い歴史の間には、打ち続く戦乱の影響を受け、一時衰微するなど浮き沈みはあったものの、江戸時代には神宮の伝統が回復され、「御蔭参り」が爆発的に流行した。
「御蔭」とは、神仏や先祖など、目に見えない存在が守り助けてくれる加護のこと。御蔭参りは、そのことに感謝を捧げるため、庶民が伊勢を目指した巡礼の旅だったという。

 



古代から続く神宮に関しては、わからないことが多いのも事実。だが、たしかなことは、神々に日々お食事をお供えし、途絶えることなく感謝と祈りを捧げてきた、その積み重ねが、今の神宮をつくった、ということだ。




淡々と、粛々と。所作の一つひとつをすみやかに、だがけっして手を抜かずにお食事をお供えする神職の姿を見て、祈りとは感情や観念的なものではなく、おまつりするという行為の中に宿るものなのかもしれないと、ふと思った。





冬 冬




Photograph by Akihiko Horiuchi
Text by Misa Horiuchi



伊勢神宮

皇大神宮(内宮)
三重県伊勢市宇治館町1

豊受大神宮(外宮)
三重県伊勢市豊川町279


文・堀内みさ

文筆家

クラシック音楽の取材でヨーロッパに行った際、日本についていろいろ質問され、ほとんど答えられなかった体験が発端となり、日本の音楽、文化、祈りの姿などの取材を開始。今年で16年目に突入。著書に『おとなの奈良 心を澄ます旅』『おとなの奈良 絶景を旅する』(ともに淡交社)『カムイの世界』(新潮社)など。

 

写真・堀内昭彦

写真家
現在、神宮を中心に日本の祈りをテーマに撮影。写真集「アイヌの祈り」(求龍堂)「ブラームス音楽の森へ」(世界文化社)等がある。バッハとエバンス、そして聖なる山をこよなく愛する写真家でもある。

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