「ザ・リョカンコレクション」に加盟する旅館の女将や支配人を紹介する連載「旅館の矜持」。今回は石川県加賀市・山中温泉の「花紫」の社長・山田耕平氏を紹介する。
山中温泉は石川県で有数の温泉郷である。今から1300年前に、大僧正の行基が山中温泉の源泉を発見したと伝えられている。老舗の旅館だった「花紫」が「凄いことになっているゾ」と言われはじめたのは、2024年頃のこと。若き当主の山田耕平社長による大胆な改修が話題に上るようになり、そのウワサは東京まで届いていた。
旅館「花紫」の屋号は、地域の美しさを讃える言葉「山紫水明」に由来している。白地に二重の円のシンボルが描かれた大きな暖簾をくぐり、館内に入る。まず印象的だったのは、若いスタッフたちの笑顔と爽やかな挨拶だった。
さて、こんなに気持ち良くさせてくれる笑顔を振りまくホテル・旅館は、日本ではめったにお目にかかれない。一瞬、バリ島やプーケットにある上質なリゾートホテルにでも来たかのような錯覚にとらわれた。人が旅館に対して抱く一般的なイメージは一新されるだろう。ここは、社長ご夫妻をはじめ、若い人たちが中心となって動かしている旅館なのだ。出迎えてくれた山田社長に改修・改革の核心について話を聞いた。
旅館業を通してお客様に伝えたいこと
「きっかけになったのはコロナ禍のときの休業です。それまでは日々の仕事に忙殺されてじっくりと考えるのがちょっと難しかった。休業したことによって、宿泊業のあり方とか、旅行ってなんだろうとか、日ごろからモヤモヤと胸に滞留していた疑問について、立ち止まって考えられたことが大きいです。その意味では、休業はコロナ禍がもたらした僥倖だったのかもしれません。
コロナ禍が明けてもこの先そのまま同じように営業を続けるのかと自問したときに、自分には旅館業を通して伝えたいことがあるはずだと思ったのです。自分が思い描く旅館のイメージもありました。それで、改修に着手してみようと決意しました。」


大きな窓から陽が射し込んで、開放感が抜群のロビー。
「自分が思い描く旅館の新しいビジョンと切り離すことはできないのですが、何よりも先に前提にしたいことがありました。それは、どのようにしたら、お客様がより満足していただけるような旅館に変えていけるかです。言い換えれば、お客様が当館に来てくださって、温泉に浸かって食べてお休みになられる、それ以外のことで何かできないか。滞在される間に感じることができる『価値』みたいなものを創造できたらいいなと思ったのです。いや、是が非でも、新しい価値を創出したかったのです。
それ以前はサービス業として、お客様に尽くして尽くしまくって、疲弊してしまうような感じでした。もちろん、そうしたエネルギーの使い方もあるのですが、目指すところはそうではないのではないか。よその旅館にはない『価値』を味わい楽しんでいただく。お客様に対してその提案ができるようになれば、自ずと旅館自体の存在価値も上がっていくはずだというふうに考え至ったのです」
日本文化の地域の拠点の一つになる
「その価値のポイントとなるのは、日本の文化を古いままではなくて、現代の形に変えて伝えていくことです。宿泊体験を通して、日本やこの土地の良いものや文化を感じていただける、そういう場所を目指していきたいと考えていました。具体的に言えば、古くからある部分では、新しい食事の提案であったり、新しいお風呂の楽しみ方ですね。新たに生み出す部分では、当館が北陸の工芸やアート、そしてお茶を含めた食文化の一つの拠点となることです。
言い換えますと、食や飲み物にテロワール(その土地ならではの風土や個性)を感じることはよくあります。『花紫』ではそれだけにとどまりません。器や空間、温泉、そしてアートにいたるまで、すべてがこの土地の魅力を伝えるための『テロワール』となっているのです。
工芸やアートに関して言えば、館内で展示することはもちろん、石川県内、北陸の作家さんを中心にして、土地の作家さんと触れ合えるところまで体験できる旅館を目指そうと考えました。その土地の風土で生まれた作品に囲まれて過ごしたり、さらには、希望があれば、作家さんの工房までお連れしてしまうという構想です。地域全体の魅力を感じていただくのが旅館の役目だと私は思っています。また、都会にはない、それだけの魅力がこの土地にはあるのです。」


暖簾は「山紫水明」を象徴的に表したエンブレムを中央に描いた。
「石川・北陸には様々な分野で作家さんがたくさんいるのですが、それは加賀の前田家から連なる文化的な継承であることを実感しますね。前田さんは本当にエラい人でした(笑)。工芸やアート以外の分野では、例えば、野菜の生産者さんであったり、見事なブリを用意してくれる神経締めの達人の漁師さんであったり、美味しいお米やお茶を作っている農家の方だったりです。そうした土地の魅力を総体として、五感全体で感じていただくための装置、それが旅館だと思っています。実際に、そうした土地の魅力のすべてを集めてきて活用できるのが旅館という存在なのではないでしょうか」
突撃スタイル(⁉)が信条
作家とのネットワークはどのように作るのか?
「基本的には突撃スタイルですね(笑)。展示会を見に行ったり、インターネットやSNSを駆使して、この人に会ってみたいという作家さんを発掘します。あとのコンタクトは主として突撃です。どうやっても辿り着けない場合には、紹介してもらうこともあります。
作家さんは人によっては人前に出ることを好まない方もいらっしゃ
ちなみに現在、館内で見られる作品の作家さんは、写真家の河野幸人さん、仏師の長谷川琢士さん、現代アートのLAKAさん、ガラス工芸の佐々木類さん、漆芸の村田佳彦さん、陶芸の中嶋寿子さん、漆芸の鵜飼康平さんなど北陸を拠点とするアーティストの作品です。昨年はロビーフロア全体を使って作家さんと学芸員の方に対談してもらって、作品発表の場を設けたりしました。この空間をもっと使って欲しいのです。これに関してはどんどん発展しているかもしれません。どこまで行くのか、自分でも興味深く見つめています(笑)」


渋いオーラを放つ茶房。ここで専門的な訓練を受けたスタッフが、
ロビーの売りは、渋いオーラを放つ「茶房」
すべてのゲストは4階に当たるロビー階に到着する。すぐに気づくのは、随所に様々な作家のアートや工芸が設置してあることだ。フロントを通り過ぎた先が素晴らしい。ゆったりしたラウンジには大きな窓が一面に並び、渓谷に沿って、対岸でまばゆいほどに緑を放つ新緑が目に飛び込んでくる。このラウンジに隣接するのが「茶房」で、ちょっとした陰翳の中にあって、加賀杉のカウンターが伸びている。全体が落ち着いていて渋いオーラを放っている。


アフタヌーンティーは予約制で(6000円)、
「実は、コロナ前の改装する際のぼんやりとしたイメージでは、ゲストが自由に紅茶やコーヒーを楽しめるセルフサービスのラウンジを想定していました。人を減らして生産性を上げていこうみたいな流れですね。しかし、考えているうちから、これは違うんじゃないかと思っていました。人の手をかけずにオートマティックな流れなわけですが、これを旅館でやる意味はどこにあるんだという疑問を抱くようになりました。
効率化した先には何もないなとも思いました。切り詰めて行って利益を出す、そういう考え方もあるのですが、利益が出たところで、自分たちもお客様も満たされないのならば、やるだけ無意味です。とすると、日本の文化を伝えていくとなれば、やっぱり日本の美意識すべてが詰まっているお茶だよねということになったのです。
それでロビー階の改修に際して造ったのが茶房でした。厳選されたお茶を人の手で丁寧に淹れることによって、お客様も集まってきて、その価値を感じてくれる。差別化できるポイントとはそういうことかなと思って、そちらに振り切ってみました。ですから、きっぱりとコーヒーを出すのはやめました(笑)。特に海外のゲストの方はコーヒーを好まれますが、お部屋で淹れてもらっています」


茶房のお茶は、このように10数種類あって、プレゼンを受けた後にゲストがチョイスする。目の前で繊細に淹れてくれる。
茶房チームは東京で研修
とは言え、それで出来上がった茶房なるものは、洗練の度合いが桁違いだ。
「修練を受けた専門のスタッフが、煎茶、加賀棒茶、抹茶、和紅茶などの10数種類のお茶、お茶のカクテルである茶酒などを、作家さんと私で共作しました特別な茶器、例えば九谷焼や珠洲焼、漆器、ガラスなどお茶に合わせた茶器でお出しします」
筆者は煎茶好きなのだが、三煎味わったお茶の味わいにはまさに格別なものがあった。


先代が20年前に作った見事なダイニング。今や世界的な和紙作家である堀木エリ子氏の作品を大胆に配した。先代のアートを見る目も確かなものだったことがわかる。右は奥様の山田真名美さん。
当館の企画・広報を担当する奥様の山田真名美さんが付け加える。
「新しく茶房チームに入ると、東京での研修がありますので、実際にお茶を習って帰ってきます。そのあとは季節ごとに東京から来てもらっています。そのたびにテストがあって、改善点を直していきます。ただお茶を淹れるだけでは意味がありません。そのお茶に価値があるぐらいのレベルにしなければと考えています。
インスタグラムなどでこの茶房があることを知って、今では茶房に入りたくて入社する社員もいるほどです。大体は県内ですが、県外からも応募があります。旅館で働きたいけれども、同時にスキルを身につけたい若い人には、一石二鳥なのでしょうね」
ご主人が続ける。
「年に何回かお茶会を開催しておりまして、展示している作家さんの器を使ってお茶を体験していただくこともやっています。今、茶房チームのトップは、茶房ができる前の時代からいる社員です。以前は私と一緒にコーヒーをポッターに入れて注ぎまくっていました。それが今やいちばん上に立ってお茶の指導をしています。彼女にとってもスキルアップできているので、仕事の付加価値を感じてくれているのではないかと思います。サービス業でもそういうことがないと今の若い社員たちは続きません」


1階の「モダンスイート」にて。渓谷沿いの新緑がダイレクトにまぶしい。部屋のミニマルなデザインが心地よい。
新しいコンセプトを詰める
先代が造り上げた「花紫」は、見事な数寄屋造りの旅館ではあったが……。
「小さい頃から数寄屋造りを見すぎてしまったせいか、何も感じなくなっていまして、むしろ根本的に変えたいとずっと以前から考えていました。しかし、大学生の時にサンフランシスコに2年ほど留学しまして、日本を外側から見たら、すごく美しいものがたくさんあることに気づいたのです。と同時に、それはそのままでは現代の人には伝わらないなとも思いました。
それからですね、どうすれば伝わるのかの模索を始めたのは。様々な宿に出かけたり、また日本のデザインをいろいろと調べるうちに、SIMPLICITYの緒方慎一郎さんに行きついたのです」
デザイナーの緒方慎一郎氏は、建築、インテリア、プロダクト、グラフィック等のデザインやディレクションで知られる。自身のお店である「Ogata Paris」、「Aesop」の店舗や5スターホテルの空間デザインなどを手掛けた。
「緒方さんは技法的には伝統的なものを使われるのですが、アウトプットされたデザインはとても現代的です。そこがすごくシックリきました。今回、当館のリニューアルを進めるに当たっては、普通はいきなりデザインから入る事務所が多いと思うのですが、緒方さんはコンセプトデザインから一緒に考えてくださったので、本当に良かったです。私のイメージを緒方さんにお伝えし、緒方さんからも沢山の提案を頂戴しました。本当に、詰めに詰めた結果がいまある姿になったのです」
以前の数寄屋造りからすると、完全な変貌を遂げた。4階のロビー階で、山田氏が考えた画期的なことがほかにもある。
「一般に旅館というのは、宿泊者しか施設には入って来ないのが当り前です。とても閉鎖的なのです。それを宿泊者じゃない方たちにも開放できないものかというのが、私の長年の課題でした。そこで、ロビー階にラウンジを作って、1
ホテルのロビーじゃないのに、従来の旅館にしてみれば、まさに驚くべき発想だ。これも彼の思考が〝お客様ファースト〟に向かっているからこそ生まれてくるアイデアなのだろう。
ゲストルームの秀逸な和モダン


双子のお風呂には衝撃を受けた。ガラス窓の手前は内風呂、向こうがは外風呂で半露天になっている。その発想が凄い。
実は、4階のロビー階から順次下って3階から1階の客室も見事な和モダンに生まれ変わった。例えば1階のモダンスイートのお風呂のデザイン性には目を瞠(みは)った。ガラスの窓を境にして内風呂と外風呂の湯舟が双子のように、内と外に配置されている。もちろん、外風呂は半露天なのだ。しかも、サウナルームに水風呂まで完備しているというオマケ付きである。寝具にも自信があるという。
「金沢の布団屋さんでISHITAYAのものです。特に羽毛が相当な品質で、極薄なのにとても暖かいです」
確かに掛けていることを忘れるぐらいに軽く、存分な保温性がある。マットレスが硬いのも好みで、きわめて快適な寝心地だった。


懐石料理である夕食はそれぞれが素晴らしい。そのうちの一品「とらふぐの白子蒸し」は、白子の濃厚さが背徳的なほどに味蕾をかき乱し、長く記憶に残った。器は同年代の作家、吉田太郎氏との共作で花紫オリジナルのもの。
もちろん、食は夜も朝も素晴らしい。
夜は料理長の中村雅和氏の手による本格的な懐石である。地野菜、地元のお造り、蛤、海苔、能登牛に特別栽培のこしひかり……。石川県の海と山の恵みをふんだんに使った、どれもが味わい深い品々に感嘆の声をあげたくなる。能登鮪のお造りだって、醤油で食すのではない。上に載せられたのは海苔の佃煮だ。新しい食べ方である。ほかにも、とらふぐの白子蒸し、地蛤の飯蒸し、能登牛のローストが印象深かった。日本酒好きにとっては、あの中田英寿氏も一推しの地元・松浦酒造「獅子の里」や、白山の吉田酒造店「手取川」などの銘酒もズラリ。ついつい飲み過ぎてしまう。
「にほんの朝ごはん」は、一品一品に魂が宿る。七輪で焼くノドグロや蛍烏賊は干物だけに旨味が深く、出汁巻きたまごのジューシーな味の濃さに目が覚める。特筆すべきは地元のこしひかりの美味しさだ。4種の漬物や海苔の佃煮に至るまで吟味されているからたまらない。ご飯のお代わりは必至である。


朝食はおかずの一つ一つに心がこもっている。蛍烏賊やノドグロの干物を目の前の七輪で燻すのも格別で、漬物や海苔の佃煮に至るまで美味しい。特別栽培の白米と浅利椀が秀逸だった。
冒頭の若いスタッフたちの話に戻す。
「いまスタッフは半分以上が20代で、平均年齢は32歳です。最近は新卒採用にすごく力を入れてやっていますので、全国から入社志望者がやってきます。サービス業は大変で、特に旅館はそうしたイメージがあると思いますが、水曜と木曜を休館にして、働きやすい環境作りにも取り組んでいます。英語研修や茶道、華道、ソムリエによるドリンクの研修など、専門知識が養えますから、スキルアップも望めます。こういうところなら働いてみたいなと思ってもらえたら嬉しいですね」
実は、山田社長の〝野望〟は留まることを知らない。
「具体的にはまだ言えないのですが、昔からやりたかった新たなプロジェクトを考えています。発表までもう少々お待ちください」
山田 耕平 KOHEI YAMADA
石川県加賀市山中温泉にある老舗旅館「花紫」六代目当主。
構成/執筆:石橋俊澄 Toshizumi Ishibashi
「クレア・トラベラー」「クレア」の元編集長。現在、フリーのエディター兼ライターであり、Premium Japan編集部コントリビューティングエディターとして活動している。
photo by Toshiyuki Furuya
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