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旅館の矜持 THE RYOKAN COLLECTIONの世界

2025.2.27

海外の富裕層に「旅館」文化を伝道し、未来へと継承するために THE RYOKAN COLLECTION代表 福永浩貴

2024年の年間訪日外客数は、3686万人と過去最高を記録しました。最近では、インバウンドが日本の津々浦々におよぶだけではありません。ハイエンドで特異性の高いサービス――― 例えばこれまでは、敷居が高かった旅館を目指してやってくる外国人も年を追って増え続けています。


こんな日がやってくることを20年も前に願って、組織づくりを始めて、海外に地道な売り込みをしていた人物がいます。それが「THE RYOKAN COLLECTION(ザ・リョカンコレクション)」を率いる福永浩貴氏です。連載企画「旅館―RYOKAN―の矜持」第1回目は、彼にどのような組織なのかをたっぷりと伺いました。





2004年「THE RYOKAN COLLECTION(ザ・リョカンコレクション)」創設





私が最初に「ザ・リョカンコレクション」の前身となる組織を立ち上げたのは2004年9月、33歳の時です。

 

 

その頃は、高級な旅の発信源はアメリカの東海岸にしかありませんでした。ですから、私もニューヨークを中心に活動して、様々なPRと売り込みに精を出していました。




当時、「旅館」という言葉は海外で通じるはずもありません。第一、英語で旅館の「Ryo(リョ)」という単語は発音すらできなかったのです。



そんな段階からすれば幾星霜、これだけインバウンドが増え、富裕層が高級旅館を目指して来日してくれるようになりました。「リョカン」という言葉が、外国人の口の端にのぼるのを見聞きしますと、まさに隔世の感があります。



「ザ・リョカンコレクション」は「日本旅館を、世界のRYOKANへ」をスローガンに掲げた、日本旅館と小規模ホテルに特化した国際ホテルコンソーシアムです。現在の加盟施設は53で、外国人個人会員は10万人を突破しました。

 

 

当コレクションの予約数はコロナ前の2019年が過去最高だったのですが、今はその約3倍の数になっています。

 





THE RYOKAN COLLECTIONのトップ画像 THE RYOKAN COLLECTIONのトップ画像

「THE RYOKAN COLLECTION」のトップ画像。ヨーロッパにみられる小規模家族経営のホテルがグループを形成するコンソーシアムモデル。厳格な審査をクリアした日本を代表する日本旅館、小規模ホテルが加盟する日本初のコンソーシアムで、世界にリョカンブランドを広く伝え、多くの海外富裕層を誘客する。まさに世界の旅行者と日本旅館、地域の懸け橋として活動する。Premium Japanもメディアパートナーとしてコラボレーションしている。



リョカンコレクションのロゴ リョカンコレクションのロゴ

2019年に発表された「THE RYOKAN COLLECTION」の新ロゴマーク。デザインは京都で着物に家紋を手で描く職人・紋章上繪師として活躍する「京源」の波戸場承龍、耀鳳の両氏。伝統的な意匠と現代感覚を融合させたオリジナル家紋だ。藤の家紋をモチーフにデザインしたこのロゴには、世界から多くの人々が地方を訪れ、藤の花が連なるように「仲間」が増え、日本文化、旅館文化の更なる発展に繋げたいという思いが込められている。

日本旅館にしかないもの



私が「ザ・リョカンコレクション」を運営するようになってちょうど20年が経ちます。その間に、旅館に対する私の尊崇の念は強まるばかりですが、なぜ外国人がこれほどまでに旅館に惹きつけられるようになったかについては私見があります。




日本旅館の人気はうなぎ上りで、外国人が大勢来てくださる一つの要因は、やはり、人というものに出会える体験にあるのだろうと思います。




大資本による大ホテルでは、サービスはもちろんありますが、個人の細やかな顔は見えにくい。一方、日本の旅館の場合には、サービスを日々実践している方たちが具体的にすぐ目の前にいるわけです。



そして肝腎なことは、その宿にある歴史やおもてなしのクオリティを継続し担保してきたのは、宿のオーナーや女将であることです。オーナーや女将が目を光らせているからこそ、その宿は良いままで居続けられるのです。



宿は小規模ですから、オーナーや女将さんには実際に会えるし、簡単に会話も交わせるのです。それは非常に価値のあることです。



こうした形態の宿は日本にしかないものと言えるでしょう。私どもは、この日本文化の価値を世界に向かって広めていき、認知度をさらに高めていくことを目標にしています。




観光が日本文化を保全する



いま、観光業界の一部では、ものすごく数に囚われてしまい、海外のお客さんに迎合しながらお金ばかりを求めるような側面も見受けられないわけではありません。

 

 

しかし、私たち「ザ・リョカンコレクション」は、数やお金のみを追い求めるつもりはまったくないし、国の文化を守っていくための観光であって欲しいと願っています。大事なのは、日本の観光産業が恒久的に未来永劫的に持続していくことでしょう。




そのためには儲け主義に走って本来あった形や姿を壊すのではなく、日本文化を保全する観光でなければ意味がありません。この国が世界でもう一度輝くためには、文化を輝かせるしかないだろうというのが私の結論です。



その意味では、旅館というものは〝毎日が博覧会″みたいなものです。万国博覧会などをやらなくても、世界の人たちが旅館の場で日本のものや心に触れる。その結果、この国の文化が評価されていきます。

 

 

いわば地域の旅館が旗を振って地域全体を引っ張り、国においては観光業界が全業界を引っ張っていく形を作れないものか。私はそれを「ザ・リョカンコレクション」で実現させたいと思っています。




ホテルのベルボーイから始まった修業時代




では、私はどうやって「ザ・リョカンコレクション」を創るに至ったのでしょうか。

 

 

最初に私は品川のホテルパシフィックに就職するのですが、しばらく働いてからシンガポールに行くことになります。就職はメリディアン・シンガポールでした。



その後、メリディアンホテルズの日本支社に入り、本社付けではありますが、東京支社の営業部長になります。仕事内容は、いろんな国でホテルの立ち上げをしたり、日本マーケットについてのレクチャーをしたり。とにかく世界中のホテルに行きました。



福永さんベルボーイ時代 福永さんベルボーイ時代

ホテルマンの第一歩はベルボーイからスタート。ホテルの仕事の面白さに目覚め、業務後に英語の学校に通うなど自己研鑽していた。



福永さんシンガポール時代 福永さんシンガポール時代

シンガポールでは営業を担当。スタッフとともに撮影した懐かしい1枚。



日本の、世界的なプレゼンスがないのはなぜ?




そこで働くうちに、日本はそれなりの国だし、ホスピタリティがあって親切だと言われている。にもかかわらず、世界的なプレゼンスがないのはどうしてだろうと考え始めたのです。

 

 

そんな時にちょうど、メリディアン系列下にあるヨーロッパのホテルの、総支配人たちが集まって日本で会議を開いたことがありました。様々な国の人が15人ぐらい来て、会議は東京でしたが、リトリートとして熱海の高級旅館に行ったんですね。



30年くらい前のことです。みんなで浴衣を着て、畳に座ってお膳でご飯を食べて。後に、ホテルの総支配人たちがお風呂に入っている姿がイギリスの新聞で紹介されたりしました。ホテルのプロたちが、日本の旅館に初めて来て、初めて日本文化に触れて、みんなが結構喜んだのです。




私が旅館に興味を持ったのはそこからです。いろいろ調べてみると、歴史もすごければ、数もすごい。私自身も若かったので国内のことを全然知りませんでした。でも、国内のどこに行っても、見事なしつらえの宿と素晴らしい食事があって、驚きだったのです。



日本の旅館と世界の人との架け橋に



旅館の人たちや地域の人たちに触れて、とても面白いと思いました。しかし、「こんなにいいものが沢山あるのに、どうして世界の人たちは知らないんだろう」、さらには、「宿の方たちは、なんで世界の人たちに伝えようとは思わないんだろう」という考えに行きつくわけです。

 

 

旅館の人たちにお話を伺いに訪ね始めたのは、こうしたいきさつからです。ヨーロッパにはすでに、ルレ&シャトーやスモール・ラグジュアリーホテルズとかのコンソーシアムがありました。ならば、日本の旅館と世界の人との架け橋になることはできないかなあと思って考えたのが、「ザ・リョカンコレクション」というモデルだったのです。




ついでに言えば、当時の日本の旅館には、強大な旅行会社のパワーだけに送客を頼り続けていたら、きっとやがては破綻するのではという危機感が芽生え始めてもいた時期でもありました。



地域文化の中心は旅館のファミリー



旅館と地域とのつながりは密接なものです。第一次産業しかり、いろんな職人さんしかり、旅館は地域を代表するショーケースの場であることは間違いありませんでした。これに関しては、欧米のホテルで旅館に類似するような例はないわけです。ならば、完全にドメスティックであった宿に外国人を連れてきたら、地域が活性化するようなことが起きるかもしれないと思ったのです。



今、「ザ・リョカンコレクション」が3番目に掲げている、「日本文化、地域文化、地域経済の発展に資する」という理念ですが、それは当時、いずれ実現できたらいいなと思っていたことです。ですから、その思いをずっと持ち続けてきたことになります。

 

 

それを実際に実現しているのは、多種多様な歴史を紡いできた地域文化であり、その中心で生きてきたのが日本旅館のファミリーであるわけです。



賛同してくれた14軒の宿



「ザ・リョカンコレクション」を起業しようと思って、2003年に会社を辞めてしまいます。33歳の時でしたか。とはいえ、いきなり起業もできません。全国を回って、100軒ぐらいの旅館のオーナーさんに会って、私の思いをぶつけました。

 

 

7割方の人は外国人なんて受け入れたくないし、しかも、32、3歳の若造がいきなり現れて(笑)、ワケの分からない話をして何だという感じでした。



ほとんど話を聞いてもらえませんでしたけど、当時、14軒のオーナーに、「それ、面白いね」って言ってもらえたのです。その地域を次世代に渡していくために、国内だけでは需要が先細りしていく懸念があったなかで、海外のこともちょっとは意識しなければならないのではと思ってくださった。

 

 

初めは、「ラグジュアリーリョカンコレクション」と命名していました。14軒で出発したのが2004年9月になります。最初のメンバーで、今も残ってくださっているのは、柊家、炭屋、強羅花壇、箱根吟遊、清流荘、柳生の庄です。




ハイエンドの宿が並んだインパクト




当初は、お客さんが来るかどうかも分からないのに、最初にお金を頂戴することはできませんでした。やはり、最初の3年間ぐらいは難しかった。そこが一番苦労した点ですね。

 

 

全部成功報酬でやらせてもらって、あとは私たちの投資でした。報酬をいただくにしても、最初は持ち出しばかりで、いつ死んでもおかしくないような状態でしたね(笑)。お蔭でいろんなアルバイトをしました。



苦しい台所事情ではありましたが、世界に向けて日本の宿を紹介するのであれば、日本で認められているハイエンドの宿をずらっと並べさせてもらうほうが、海外に向けてはインパクトが強いと思っていました。これならば、世界は絶対にこっちを向いてくれるはずだ、と。



「旅館」という言葉を使い続ける



「ラグジュアリーリョカンコレクション」からラグジュアリーを外したのは、その言葉を使うことがダサいなと思ったからです。日本の宿の場合は、ひけらかすことなく、いぶし銀のような真髄を継承しながら粛々とやってきました。ラグジュアリーというよりもプレステージャスですね。代わりに「ザ」を付けて、「ザ・リョカンコレクション」にしたわけです。



それと自分が一番こだわったのは、「旅館」という言葉を使い続けることです。英語で「RYOKAN」を世界の人が発音できるようになるまで認知度を高めたいと思っていました。


ザ・リョカンコレクション代表 福永氏 ザ・リョカンコレクション代表 福永氏

飛躍のきっかけは『トラベル&レジャー』で巻頭15ページの大特集





当時、ラグジュアリートラベルの情報発信は、雑誌で言えば、『トラベル&レジャー』や『コンデナスト・トラベラー』とかです。それらは全部ニューヨークに集まっていました。私もしょっちゅう行っては売り込みをして、啓蒙を続けていました。

 

 

必死にやっているなかで、『トラベル&レジャー』誌が、巻頭の15ページで、「ザ・リョカンコレクション」の特集をしてくれたのです。表紙は当時加盟してくれていた伊豆・修善寺の「あさば」さんでした。



取材はシェーン・ミッチェルというトラベル業界では著名な書き手で、彼女は、あさばを初めとして、強羅花壇、柳生の庄、柊家とか一週間の旅をしてくれたのです。その記事で彼女は、日本旅館の歴史と彼らの思い、それから家族が代々紡いできたストーリーを描きあげてくれました。

 

 

サービスマニュアルがあるわけでもない、セレブリティシェフがいるわけでもない。にもかからわらず、最高のサービスと最高の食を提供してくれるのはどうしてなのか。彼女はそこを掘り下げてくれた。それは日本人の文化性だし、自分の家に来てもらった人をとことんもてなす文化だし、四季を大切にして、職人や生産者に対しても繊細な関係を保ってきた日本人だからこそできる――と。



しかもそれが日本全国、どこにでもあるという驚きがある。それは世界にはないストーリーだったのです。

 

 

この記事が世界的なパブリシティとなって、「ザ・リョカンコレクション」の名前が一気に広まった。これが大きな転機でした。立ち上げ時は苦労しましたが、ニューヨークでの活動がようやく報われました。



それからと言うもの、CNNやBBCなどメジャーなテレビ局が来るようになり、雑誌メディアも多数訪れるようになったのです。それでお客さんは一挙に増えました。




「旅館」という、未知の体験をする楽しみ



では、当時、言葉の問題などはどうしたのでしょうか。昔は言葉もできない宿が多かった。でも、私は「言葉なんかできなくたっていい」と、ずっと言ってきました。そのままの魅力が、外国人に伝わればいいのです。

 

 

それこそ、客室係のお姉さんたちは、まったく物怖じせずに、「よく来たね」、「疲れたね」、「大丈夫」、「どうぞ、どうぞ」ですから。外国人がポカーンとしていますけど、それが嬉しいわけです。



言語対応や外国人の習慣に関してこちらが何かを変えるよりも、心が伝わることのほうがよほど大事です。なぜなら、外国の人は違う文化を見に来ていて、出会ったことのない人に会って、未知の体験をすることを楽しみにしているわけですから。



「旅館ってそういうものなんです」




例えば、食事に対する苦情があります。食べられるものと食べられないものがあり、メニューがないから選ぶこともできない。食事の時間が決められているので、夜中に着いてもご飯が食べられない。

 

 

「日本の最高の宿」と言いながら、夜中に着いて何も食べられないのかなんて、いくらでも言われますけど、答えは一つ、「旅館ってそういうものなんです」。「それが嫌だったら、ホテルに行ってください」。それだけです。



そういう風にして旅館のブランドを作ってきましたし、これからもそうしていきたい。オーナーや女将が今までやってきたことに対して、最大限の敬意を抱いていますし、それを後世につなげていくことが旅館の文化とブランドを守っていくことだと私は思っています。

 

 

次回からはいよいよ「ザ・リョカンコレクション」に加盟している施設のオーナーや女将の連載インタビューが始まります。どんなことを語ってくれるのか、今からとても楽しみです。















































































福永浩貴 Hiroki Fukunaga

THE RYOKAN COLLECTION 代表。1970年5月9日兵庫県西宮市生れ。約15年に渡る英国の高級ホテルチェーンでの勤務を経て、世界各国の富裕層旅行関係者の人脈をバックに、2004年に日本で初となる高級旅館コンソーシアム「ザ・リョカン・コレクション」を発足し、海外マーケットにおいて加盟旅館のマーケティングやPRを推進し、海外の一流ホテルチェーンを凌ぐブランド構築を目指し活動している。一般社団法人日本文化発信機構の理事も務めている。



構成/執筆:石橋俊澄  Toshizumi Ishibashi

「クレア・トラベラー」「クレア」の元編集長。現在、フリーのエディター兼ライターであり、Premium Japan編集部コントリビューティングエディターとして活動している。

 

photo by Toshiyuki Furuya


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