今日は能についてお話しましょう。
能とは、650年前から続く、演劇、ダンス、歌、ミュージックインストルメンタルを合わせた歌舞劇です。2008年にユネスコの無形文化遺産に登録され、世界的に注目を集めました。
当初はアクロバティックな芸など娯楽的な要素が強かったのですが、14世紀の初めごろに大きな転換点がありました。能アクターで、能の劇団の主催者でもあった、カンアミ(観阿弥)と息子のゼアミ(世阿弥)が、能の形式を完成させたのです。
14世紀以来、サムライたちの庇護を受け、大切にはぐくまれてきました。
エミー賞やゴールデングローブ賞を受賞したTVドラマシリーズ「SHOGUN(将軍)」をご覧になったことはありますか?
サナダ ヒロユキ(真田広之)が演じたヨシイ トラナガ(吉井虎永)は、トクガワ イエヤス(徳川家康)という、日本全国を統治したサムライをモデルとしています。イエヤスは能をこよなく愛したサムライでした。
イエヤスは、サムライたちの公式なバンケットには、能を舞ったり、鑑賞することを定めました。高貴なサムライたちにとって、能は身に着けておくべき教養だったのです。
日本が世界に誇る、偉大なるフィルムディレクター、クロサワ アキラ(黒沢明)は、能に魅せられたひとりでした。
彼の代表作「The Throne of Blood(蜘蛛巣城)」は、シェイクスピア「Macbeth(マクベス)」をベースに、舞台を日本に置き換え、能の様式を用いて描いています。
クロサワは、能の雰囲気をしっかりととらえて、この映画作品に生かしています。見てみてください。
もうひとりの偉大なフィルムディレクター、オズ ヤスジロウ(小津安二郎)も能を愛し、「Late Spring(晩春)」というフィルムの中の劇中劇として描いています。能舞台を見つめる主演女優のハラ セツコ(原節子)の美しい横顔を発見することができます。
日本のカルチュラル アイコンたちがこよなく愛する能ですが、モダニズム建築の巨匠ル・コルビュジェ(Le Corbusier)は、1955年に来日した際、東京、京都と訪問先に必ず能が組み込まれていたことに、うんざりしていたという記録が残っています。
現代の日本では、イエヤスの時代とは異なり、能に親しむ人は少なくなりました。このスピードが競われる現代において、能にはゆったりとした時間が流れていること、そして、能の持つミステリアスで難解な雰囲気に、見ることをリジェクトしてしまう人が多いのかもしれません。
でも、能に描かれる、何百年経っても変わらない人間の心や、人生に起こる不条理の中に生きる人間の姿に胸を打たれ、魅力に取りつかれる人もたくさんいます。
あなたがル・コルビュジェのように、能にうんざりしてしまうか、イエヤスやクロサワのように魅せられてしまうか…… 能とはどんなアートかを知ることで、少なくともうんざりすることはないと思います。
能のすべてをここで語ることは不可能ですが、知っておくべき基礎知識をお伝えしましょう。
また、英語で書かれたガイドなどもお教えします。
能ってなに?:650年前から続く歌舞劇
![椎崎諏訪神社能舞台で開催されている天領佐渡両津薪能](https://www.premium-j.jp/wp-content/uploads/2024/11/SONY-DSC-e1731693936687.jpg)
![椎崎諏訪神社能舞台で開催されている天領佐渡両津薪能](https://www.premium-j.jp/wp-content/uploads/2024/11/SONY-DSC-e1731693936687.jpg)
サドガシマ(佐渡島)のシイザキ スワ ジンジャ(椎崎諏訪神社)の能舞台で開催されているテンリョウ サド リョウツ タキギノウ(天領佐渡両津薪能)。©佐渡観光PHOTO
能とは、650年前から続く、演劇、ダンス、歌、ミュージックインストルメンタルを合わせた歌舞劇です。
マスクを着けて演じることも特徴的です。能のマスクはオモテ(面)といい、役柄に合わせて着けます。
マスクは約250種類あると言われ、基本的なもので約50種類あります。マスクに表情はありませんが、演技者の力量によって感情を表現します。
たとえば、同じマスクでも光を受ける角度によって、異なる感情を表現することができると言われています。
能のアクターは主人公を演じるシテと、シテの相手役を担うワキがいます。ワキは現実世界に生きる僧などに対して、主人公であるシテは、亡霊や精霊など次元を超えた、人間でないものの場合が多いです。マスクを着けた主人公のシテは、謡い、舞います。
そして音楽を担当するハヤシカタ(囃子方)、ジウタイ(地謡)というコーラス隊などで舞台は成立しています。
驚くほどゆっくりしたテンポで物語が進行し、舞台セットがないこともあなたを困惑させるかもしれません。
能ってなに?:人生に起こる悲劇を描く能。コミックリリーフとしての狂言。ふたつセットで見るもの
![Sadogashima Noh](https://www.premium-j.jp/wp-content/uploads/2024/12/Sadogashima-Noh-.jpg)
![Sadogashima Noh](https://www.premium-j.jp/wp-content/uploads/2024/12/Sadogashima-Noh-.jpg)
k_river / PIXTA
では能では、どんな物語が演じられているのでしょうか? ほとんどが悲劇です。人生にこんなことが起こるのか、というような不条理を描くことが多いのです。
たとえば、「スミダガワ(隅田川)」という作品ではキッドナップされた子どもを探して遠くまでやってきた半狂乱の母親が描かれ、「トオル(融)」では悲劇的な最期を遂げたプリンスの亡霊、「ハンニョ(班女)」という作品では愛しい恋人に会えずに狂ってしまった遊女の姿が描かれます。
でもそれは、ギリシャ悲劇もおなじでしょう?オペラも、悲劇的な物語が多いと思います。
重い雰囲気の作品ばかりではないので、安心してください。
実は、能だけを見るということは、基本的にはありません。
能を見て、次にキョウゲン(狂言)というお芝居を見ます。もしくはその逆もありますが、能と狂言はセットで見ます。日本では、能と狂言を総称して、ノウガク(能楽)と呼びます。
狂言とは、簡単に説明しますと、セリフを中心としたコメディです。
能の作品の多くは悲劇で、かなり緊張した場面が続きますが、狂言は普遍的な人間のおかしさを描いています。また狂言はマスクをつけずに演じられます。
狂言という、コミックリリーフがあるからこそ、能作品の悲劇性が際立つとも言えるでしょう。
人生とはまさにルールのない、不条理な悲劇や喜劇が必ず起こるものであると、示唆しているのかもしれません。
能ってなに?:能舞台の構造
![椎崎諏訪神社能舞台 しいざきすわじんじゃ](https://www.premium-j.jp/wp-content/uploads/2024/11/shiizakisuwajinjya2-e1731692090935.jpg)
![椎崎諏訪神社能舞台 しいざきすわじんじゃ](https://www.premium-j.jp/wp-content/uploads/2024/11/shiizakisuwajinjya2-e1731692090935.jpg)
サドガシマ(佐渡島)のシイザキ スワ ジンジャ(椎崎諏訪神社)能舞台。©佐渡観光PHOTO
能舞台は、通常の劇場とは異なるスタイルを持っています。
まず、独特な舞台のデザインです。屋根がついているのが特徴的ですね。1868年以前(まだサムライが日本を治めていた江戸時代)の能舞台はすべて屋外に有ったのです。屋根がついているのは、その名残です。
1868年、サムライの治世が終わり、明治時代に日本の政治システムが近代化されて以降、劇場の中に能舞台が収められたのです。
幕がなく、舞台が観客席に大きくせり出していること。そして、楽屋と舞台をつなぐ通路でもある、ハシガカリ(橋掛かり)と呼ばれる第二の舞台の存在も独特です。
能には幕がないので、舞台に囃子方、地謡など演奏を担当するパフォーマーが現れたら、舞台が始まるサインです。
舞台中央に描かれている絵は、松の木と決まっています。これはカガミイタ(鏡板)と言います。
このシンプルな構造の舞台で、物語は進行していきます。
たとえば、旅人の行く山中だったり、子どもをキッドナップされた母親が嘆き悲しむ川辺になったり、昔は貴人が住んでいた廃屋という設定だったりしますが、舞台装置はありません。このままです。
極限までシンプルな舞台で、物語は繰り広げられるのです。
舞台セットはありませんが、能アクターの演技や舞、謡を聞きながら、観客の心は遠くへと誘われ、その情景を心に描くのです。
このように、日本人が作り上げた文学や演劇は、想像力を駆使するものが多いのです。
能ってなに?:能の歴史
能の起源は、西暦700年代にまでさかのぼります。こっけいな芸や物まね、アクロバティックな曲芸、奇術などの娯楽的要素の強いサンガク(散楽)と、もっとフォーマルな印象の舞や音楽を奏でるガガク(雅楽)が、中国から日本にもたらされます。
これらの民衆芸能や神事、舞踊、歌謡などの要素が融合して、能の原型が作られたのです。狂言も、能と同じルーツを持っています。
能が大きな発展を見せるのは、室町時代、14世紀ごろのことです。カンアミ(観阿弥)と、その息子・ゼアミ(世阿弥)が、能の形式を大成させたのです。
特に息子の世阿弥は、新しい能のスタイル、ムゲン ノウ(夢幻能)を確立しました。
夢幻能は、はっきりとした構成を持っています。それは大体、こんな感じです。
多くは、ワキ演じる旅をする僧侶が旅先である人物と出会い、その土地にまつわる物語や、その人の身の上話を聞きます。
すると、その人物が実はその土地の神や精霊だったり、思いを残して亡くなった亡霊だったりするのです。これはシテが演じます。
その話を聞いた旅の僧が彼らのために祈り、魂を鎮め、導いて終わる、という流れです。
ゼアミ以前では、現在能(ゲンザイ ノウ)という登場人物がすべて現実の人間である能が演じられてきたのですが、夢幻能では、非現実的な神や精霊、亡霊などが出現し、また、時系列を前後して物語ることができるため、ファンタジックな印象を観客に印象付けることを可能としたのです。
そして物語の中盤からクライマックスにかけては、シテのゴージャスな舞を組み入れてあるのが特徴です。
現在、上演される能作品250ほどのうち、約50はゼアミ(世阿弥)の作であり、おおよそ20%を占めていることでも、彼の功績の大きさがわかると思います。
ここまで語ったことは、基礎知識です。
でももし、あなたを能のシアターに誘ってくれる人がいたのなら、ここで得た基礎知識をもとに、スモールトークはできるでしょう。
能を見る、知るためのガイド
英語のAudio guideやSubtitlesがある公演を選び、事前に内容のサマリーを読んでおきましょう。あらすじがわかっていれば、Audio guideやSubtitlesを追うだけでなく、能の世界に入ることができますから。
タイムテーブルもチェックしておきましょう。狂言は大体30分ほど、インターバル20分間をはさんで、能が1時間ほど、というのが多いです。
完全に理解することは難しいかもしれません。でも人間の人生に起こる悲喜劇は、昔も今も変わらない、普遍的なものです。あらすじ、状況設定がわかっていれば、物語の中に入っていけるはずです。
Theater
![国立能楽堂(National Noh Theater)](https://www.premium-j.jp/wp-content/uploads/2024/12/National-Noh-Theater.jpg)
![国立能楽堂(National Noh Theater)](https://www.premium-j.jp/wp-content/uploads/2024/12/National-Noh-Theater.jpg)
mizoula / PIXTA
国立能楽堂(National Noh Theater)
東京の千駄ヶ谷にある国立能楽堂は、年間を通じて公演があります。初心者のために簡単な解説がある公演もあります。基本的には、英語のAudio guideか、英語のSubtitlesを見ることができるはずです。行く前に確認してください。Japan Arts Council
また能の演目、演技、衣装、また歴史まで網羅している「能楽への誘い」というサイトへもアクセス可能です。英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語、繁体字、簡体字、韓国語で読むことができます。Invitation to Nohgaku
Book
![能十番](https://www.premium-j.jp/wp-content/uploads/2024/11/main.jpg)
![能十番](https://www.premium-j.jp/wp-content/uploads/2024/11/main.jpg)
『能十番 新しい能の読み方』 著/いとうせいこう、Jay Rubin 新潮社
日本人のノベリスト、いとうせいこうと、日本文学の研究者で、村上春樹(ムラカミハルキ)の小説の翻訳を手掛けるJay Rubin(ジェイ ルービン)が手掛けた本書は、英語、日本語併記で書かれています。代表的な10作品をセレクトし、物語を実際に読むことができ、解説もしています。作品と解説を読めば、能とはどのような芸術かがわかります。https://amzn.to/3CxImQb
Travel
![大膳神社](https://www.premium-j.jp/wp-content/uploads/2024/11/daizenjinjya2-e1731693501410.jpg)
![大膳神社](https://www.premium-j.jp/wp-content/uploads/2024/11/daizenjinjya2-e1731693501410.jpg)
新潟県佐渡島の大膳神社(ダイゼン ジンジャ)の能舞台。©佐渡観光PHOTO
ニイガタケン サドガシマ(新潟県 佐渡島)
自然を満喫しながら、能を楽しむ旅を提案します。東京都の半分ほどの大きさの島・佐渡島は、晩年の世阿弥が流された伝説がある島です。400年ほど前の江戸時代に、佐渡島の庶民の間で能のブームが起こりました。最盛期は200もの能舞台が作られ、現在でも30は残っていると言われています。佐渡の能舞台は、ほとんどが神社に併設されており、客席は野外。夏の夕暮れから夜にかけて、薪の明かりのもと演じられる能舞台の美しさは格別。毎年5月ごろから10月ごろにかけて公演が行われます。夕暮れから夜のマジックタイムに能を見るのは、日本の夏の伝統です。
Sado Tourism Navi 佐渡観光なび
参考文献:Enjoying Noh and Kyogen , THE NOHGAKU PERFORMER’S ASSOCIATION
【マダムワタナベとは】
日本文化に造詣の深い、謎の日本人女性。ちなみに欧米の株式市場に現れる日本からの小口投資家群・ミセスワタナベとは関係がない。
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