「いただきます」—この一言に込められた日本独自の食の哲学を世界に問いかける場所が、大阪・関西万博のシグネチャーパビリオン「EARTHMART(アースマート)」だ。シグネチャーパビリオンとは、大阪・関西万博が掲げる「いのち輝く未来社会のデザイン」というテーマを8つのサブテーマに分け、それぞれに1人ずつプロデューサーを指名した特別なパビリオンで、小山薫堂氏が担当する「いのちをつむぐ」をテーマにした展示がこのEARTHMARTだ。
里山の知恵を現代に伝える茅葺き建築
まず目に飛び込んでくるのは複数の茅葺き屋根が集まった独特の外観だ。隈研吾氏の事務所が手がけたこの建築は、同事務所に所属する若手建築家から出た50近いアイディアからいつくつかの要素を組み合わせて決定した、いう。茅葺きは全国5つの地域(熊本県阿蘇市、静岡県御殿場市、大阪府大阪市淀川区、滋賀県近江八幡市円山町、岡山県真庭市蒜山高原)から集められ、伝統的な職人技で仕上げられている。
複数の屋根が集積した形状は、市場のような賑わいを表現。茅葺きという素材選びには、里山の暮らしにおける人の営みと自然との循環という意味も込められている。万博終了後には茅は再利用され、建築自体が循環の思想を体現している。


持続可能性をテーマに掲げた万博会場では全体的に木材を使ったパビリオンが多いが、その中でも茅葺の屋根は特別な存在感を放っている。
空想のスーパーマーケットをめぐる旅
館内は「プロローグ」「いのちのフロア」「未来のフロア」「エピローグ」という4つのエリアで構成されている。入口のプロローグエリアでは、命と食の循環をテーマにしたアニメーションが流れる。ここで心を整えてから、いよいよ「アースマート」という空想のスーパーマーケットへの旅が始まる。


建物の最初の部屋はシアター。ここでオープニング映像を見終えると「いのちのフロア」という部屋が現れる。
小山氏は「万博と言うと未来のショーケース、未来社会のショーケースと言われます。けれど、この雰囲気からわかる通りですね。ここはただ未来のものをどうだという感じで展示しているだけではなく、どちらかというと私たちが未来で生きていくためには今何をすればいいのか、過去に学ぶべきものはないのか、そういうことを考えるところから、このプロジェクトをスタートさせました」と説明する。
「普通のスーパーで命の重みを感じることはありません。ここで命の重みをスーパーマーケットの中で感じていただいて、外のスーパーに行った時もそれをちょっと思い出していただけたり、あるいはアースマートという地球の市場、地球全体が1つのみんなで共有する市場と考える、そういうきっかけになればいいなと思っております」。
いのちのフロア:見えない「いただく命」を可視化する
パビリオンに入ると最初の部屋はシアターになっており、映像を見終わると、売り場をイメージした「いのちのフロア」と呼ばれる展示空間が現れる。


日本人が食べる10年分の食べ物の体積(810リットル)を学校法人瓜生山学園および京都芸術大学の有志学生がねぶたの技法を使って制作したショッピングカート。
まず見えてくるのは高くそびえ立つ野菜たちの壁--「野菜のいのち」と題して、野菜の一生を見届ける展示になっている。小山氏は「野菜に命があると感じる方はそうはいないと思うんですけども、私たちが頂いてる野菜はその野菜の立場で言うならば決して人間に食べられるために育っているのではなく、自分たちの種を繋いでいくために栄養も蓄え、それが人参、大根になったりするわけです」と語る。
「いのちの色」という展示は、古代ローマの美食家アピキウスの「私たちはまず目で食べる」という言葉から着想を得て食材に含まれている色を後ろから光を当てられた瓶に詰めて展示している。


日本人が食べる主要な食材300種、816カットの写真を瓶に封じ込め、スーパーの売り場のようなショーウィンドウにした展示。
魚売り場風の「いちばん食べられる魚」という展示では、食物連鎖の最下層に位置するイワシに焦点を当てている。「ご存知の通り、魚へんに弱いと書きます、イワシは海の魚の食物連鎖などで1番最下層にいる生き物です。(中略)1匹のイワシは大体10万個の卵を産むそうなんですが、それから魚が孵化して魚になって結局最後には人間に捉えられるのはそのうちの10匹だけだそうです。しかもその10匹のうちの7匹は肥料にされたり、人間の口に入ることなく使われてしまうので、我々が普段食べているのは10万分の3という命になります」と小山氏は説明する。
一方で日本人が一生で食べる卵は約28,000個で、それをシャンデリア風に「一生分のたまご」という展示もある。その下には巨大な目玉焼きが置かれ、来場者が口を開けて写真を撮れるフォトスポットになっている。


「一生分のたまご」の展示はパビリオン随一のフォトスポットだと小山薫堂氏。自ら下から一生分の卵を食べているようなポーズを取ってくれた。
未来のフロア:伝統と革新が融合する食の未来
「未来のフロア」に進むと、最初に目を引くのは「未来を見つめる寿司屋」だ。江戸前の寿司文化を代表する小野二郎氏(2025年10月に100歳を迎える)が、特別に養殖魚を握った寿司が展示されている。伝統技術と最新の養殖技術の融合を示す象徴的な展示だ。
興味深いのは、これらの展示でソニーの最新テクノロジーが使われているにもかかわらず、あえて詳細な技術説明を壁に掲示していない点だ。永野氏は「現代アート作品と同じように、知りたい人はスタッフに聞けばよい」という考えを持つ。すべての情報を提示してしまうと、来場者は説明を読むだけで終わってしまう。しかし、情報があえて少ないことで、来場者同士やスタッフとの自然な対話が生まれ、それが新しい発見や感動につながるというデータが得られているのだ。


小野二郎氏と言えば映画「二郎は鮨の夢を見る」を通して世界中にその名を轟かせた名店「すきやばし次郎」の大将。透過型ディスプレイに原寸大で投影されることで、その大将が、一瞬、本当にそこにいるのかと思わせるリアルな存在感で登場。彼の店では握らない養殖魚を握っている。撮影時には「海がどんどん変わってきています。旬もずれてますから、その時に旨いものを出さないとなりません。これからの職人はちゃんと考えて、より一層の努力をして味を仕上げなくてはならないから大変です。世界中の国々と人々が海洋資源を守っていくことが大切だと思います。」と語っていたという。


ソニーが開発している料理人の料理方法を記録し、再現する「録食」の技術。料理中の温度変化や食材投入のタイミング、具材の混ぜ方や力加減、水分蒸発量などさまざまな情報をセンサーなどで記録。IHと連携した専用のアプリで、1秒単位1グラム単位まで同じ料理が再現できるようにナビゲーションをしてくれるシステム。小山薫堂さんが好きな青森県弘前の洋食屋が出していたナポリタンの料理方法も店主が急逝する前に記録でき、展示されている。
興味深いのは「EARTH FOODS」というコーナーだ。「これは未来のフロアにありながら、新しいものは1つもないという、ちょっと変わった展示です。日本人には当たり前で古臭いと思っているかもしれないけれど、海外の食の関係者が見ると、こんな技術が知恵があるのかとか、こんな食材をこんな風に調理しているのか、という食のヒントを得られる」と小山氏は語る。かんぴょうやこんにゃく、すり身やフグなど25の食材を、クリエイターが作った食材の魅力が伝わるパッケージと共に展示し、新たなレシピの提案なども行なっている。


日本ならではの食品を選定し、その価値や知恵を世界と共有することで地球の食を未来に輝かせるプロジェクト「EARTH GOODS」。展示スペースの中央のショーケースに飾られた選ばれた25の食品。


「EARTH GOODS」のコーナーでは、それぞれの食品に対して、いつもとはちょっと違うパッケージを用意することで、日本人もこれまでとは違った新しい視点で食品を見直すことができるように工夫されている。デザインは日本全国から一般公募したという。
エピローグ:地球という大きな食卓
最後のエピローグでは、巨大な円卓を囲んで映像を鑑賞する。小山氏はここで「1つの食卓を囲めば、みんな心も通じ合うようで、思えば地球というものそのものが1つの食卓みたいなもので、それをみんなで囲んで生きてますよ。みんなで地球に感謝しましょう。感謝を込めて命に感謝を込めていただきます、を言いましょう」というメッセージを伝えている。
来場者への特別なプレゼントとして、紀州梅の会と提携した梅干しの引換券が用意されている。「今年の6月に収穫された梅をここでえます。そしてそれを2050年、25年後に開封しようと考えております」と小山氏。熊野本宮大社の宮司による「売家呉服を開く」という文字入りの引換券は、時を超えて人と人をつなぐ媒体となる。
「いただきます」が紡ぐ未来
小山氏は「いただきます」の意味について、「1人の人間の命、およそ80数年間平均的な命が80数年間続くとして、その1つの命を守るために一体どれだけの命を我々は頂いているんだろうか? その重みや責任を感じた時に自分の生き方も少し変わりますし、日常の食への感謝もより深まります」と語る。
「今混沌として、それから人を傷つけたり、色々な争いが行われている、この時代に、自分が存在していることに感謝をし、そして他者を思いやる。感謝することから、他人のことを深く理解しようとする。食がそのきっかけになればいいなと思いました」。
小山氏自身、5年間このパビリオンに携わる中で「1番大きく変わったことは、いただきますを、誰よりも魂を込めて言えることができるようになったと自負しております。1日2回、もしくは3回食事の度にいただきます、言ってその先にいただく命もありますし、生産してくださった方もありますし、それを運んでくれた人、調理してくれた人、そしてサービスしてくれたり、と瞬時にいろんな人への感謝の気持ちを自分の中で熟成させ、それが日常の中の豊かさにつながっていると自分自身に実感しております」と語る。


「食」の循環を展示するからには排泄行為も無視できない。最後にどうしてもこれを展示したかったという小山薫堂氏。普通に展示したら怒られそうだからと白磁の人間国宝、前田 昭博に作陶してもらいたい「運壺」という作品として野菜の花を添えて展示している。
小山氏はEARTH MARTをきっかけに、日本各地に食をテーマにした博物館が誕生することを願っている。「今、日本にはたくさんの図書館、美術館がありますけれども、食をテーマにした博物館というものはほとんど存在しません。わずかに存在するだけです。僕はこのEARTH MARTがきっかけとなって、日本の各地に食をテーマにした博物館ができれば、きっと日本の世界へ発信する武器の1つにもなります。そこで暮らす人たち子供たちの役に立つのではないかなと思います」。
EARTH MARTが問いかけるのは、単に何を食べるかという問いではない。どのように食べるか、何に感謝して食べるか、そして食を通じて私たちはどのような未来を紡いでいくのかという本質的な問いだ。


Profile
林信行 Nobuyuki Hayashi
1990年にITのジャーナリストとして国内外の媒体で記事の執筆を始める。最新トレンドの発信やIT業界を築いてきたレジェンドたちのインタビューを手掛けた。2000年代からはテクノロジーだけでは人々は豊かにならないと考えを改め、良いデザインを啓蒙すべくデザイン関連の取材、審査員などの活動を開始。2005年頃からはAIが世界にもたらす地殻変動を予見し、人の在り方を問うコンテンポラリーアートや教育の取材に加え、日本の地域や伝統文化にも関心を広げる。現在では、日本の伝統的な思想には未来の社会に向けた貴重なインスピレーションが詰まっているという信念のもと、これを世界に発信することに力を注いでいる。いくつかの企業の顧問や社外取締役に加え、金沢美術工芸大学で客員名誉教授に就いている。Nobi(ノビ)の愛称で親しまれている。
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