連載企画「知られざる北斎〜beyond the border~」を一気読み!

2018.01.08

2017年10月の連載開始以来、葛飾北斎のサイドストーリーを追いかけてきた「知られざる北斎〜beyond the border~」。今、改めて日本国内のみならず海外からも注目を集める北斎、それではなぜ北斎がかくも有名になり、強い影響を及ぼしてきたのか。そこには林忠正、という影役者の存在があった……。連載を一気にプレイバック!

第1話:葛飾北斎とゴッホを結びつけた日本人

いまや「モナ・リザ」と並ぶ認知度と評価を得ている「The Great Wave=神奈川沖浪裏」を描いた葛飾北斎。その作品と世界への広まりには、幾多の謎がある。江戸末期に国内では誰も見向きもしなかった浮世絵が、最初に評価されたのはどこだったのか?続きはこちら>>

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第2話:葛飾北斎とゴッホを結びつけた日本人②

国道1号線から横浜駅に続くだらだら坂。教えられるままにその中腹にある家を訪ねると、レンガ壁のリビングには古き懐かしきベル・エポックのパリの香りが漂っていた。何枚もの額装された絵画や写真、重厚なフランスの写真集等。ひときわ目を引くのは、中央に飾られた貴婦人の肖像画だ。印象派勃興期のパリの社交界で人気ナンバーワンだった肖像画家ポール・エルーの作品「グレフュール伯爵夫人」。夫人は詩人ロベール・ド・モンテスキューの従妹であり、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』にも登場するほどの絶世の美女だったという。続きはこちら>>

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第3話:西欧諸国に吹き荒れるジャポニズム①

 パリで約30年間生活し、北斎らの浮世絵とモネ、マネ、ゴッホら印象派の画家たちを結んだ立役者の一人、画商の林忠正。その経歴を調べてみると、明治の開国期を生きた若者の熱き生きざまが読み取れる。1853年、鎖国政策が解かれる1年前、忠正は現在の富山県高岡市の外科医の次男として生れた。当時の高岡は加賀100万石の前田藩の商工の町。自由な活気、豊かな経済、文化水準も高かった。その祖先は当時最先端だったオランダ医学を長崎で習得し、「長崎先生」と呼ばれて多くの患者が詰めかけていた。いつからか「長崎姓」を名乗ることになる。続きはこちら>>

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第4話:西欧諸国に吹き荒れるジャポニズム②

「ジャポニズムがパリで起きたのは1872年ころだと思います。フィリップ・ピュルティという美術評論家がこの言葉を広めました」現在国立西洋美術館で開催中の『北斎とジャポニズム』のシンポジウムのために来日したパリ・オルセー美術館担当名誉学芸員、ジュヌビエーヴ・ラカンブルが言う。齢70歳を越えたと思われる高齢にもかかわらず、彼女は一人で上野のホテルのロビーに現れた。穏やかな印象だが、一度ジャポニズムについて語りだすと次々と年号を連発し、その知識を余すことなく披瀝する。続きはこちら>>

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第5話:熱狂する海外、見向きもしない日本

パリ・サンラザール駅からノルマンディー地方に向かう二階建ての郊外列車に乗って約45分。バスに乗り換えて約30分。のどかなフランスの里山風景を愛でているうちに人口約500人の小さな村、ジヴェルニーに着く。町で唯一の産業はクロード・モネ財団が運営する「モネの家」であり、世界中の絵画ファンを魅了する『睡蓮』が描かれた印象派の聖地だ。ピンク色の可愛くも巨大な家の各部屋には、約200枚もの浮世絵(現在はレプリカ)が! そのことは有名でも、ここにもまた浮世絵と印象派を結んだ明治の画商、林忠正の足跡が刻まれていることは、多くの観光客も知らないようだ。続きはこちら>>

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第6話:芸術によって西洋と東洋を結ぶ

今年11月の初め、マロニエが色づき始めたパリの街をあちこち訪ね歩いた。目的の一つは、いまから約140年前、1880年代にこの街で「青春の夢」に生きた男・林忠正の足跡を辿ることだった。林こそ、ジャポニズムに沸く70年代後半のパリにやってきて、その前後から浮世絵に熱中するジャポニサン(日本文化愛好者)や印象派の画家たち(モネ、マネ、ドガ等)に良質な浮世絵を売り、時には貧しい画家には作品と物々交換していた美術商だった。日本美術の細部を西洋美術が自ら取り入れたムーブメント「ジャポニズム」の影の演出家であり、その最大のコンテンツである北斎を、「世界の北斎」に導いた一人といっていい。続きはこちら>>

 

上町祭屋台天井絵「男浪」

いかがでしたか?引き続き「知られざる北斎〜beyond the border〜」連載にご期待ください。