角田光代の現代語訳によって
生き生きと動き出した
『源氏物語』とは
平安時代中期に紫式部が書いた『源氏物語』は、千年以上日本のみならず世界で愛読されてきた日本を代表する古典である。54帖で構成されるこの壮大な物語は、諸説あるが400字詰め原稿用紙に換算すると約2500枚、約500人の登場人物を有し、物語の時間はおよそ70年にもおよぶという。千年前に現れた、驚くべき長編作品なのである。
明治時代以降、与謝野晶子や谷崎潤一郎をはじめ、多くの作家が魅入られたように、この世界最古の物語と言われる古典をその時代の言葉に訳してきたし、海外でも33ヶ国語に翻訳されている。まさに時代も空間も飛び越えて読み続けられている稀有な名作なのだ。その『源氏物語』に、あらたな現代語訳が完成した。『日本文学全集』(河出書房新社刊、全30巻)の中におさめられた『源氏物語』の訳者は角田光代。2017年に1帖「桐壺」から21帖「少女」までをおさめた『上巻』を、2018年には22帖「玉鬘」から41帖「幻」までを収録した『中巻』を上梓。そしていよいよ、42帖「匂宮」から54帖「夢浮橋」までをおさめた『下巻』でクライマックスを迎える。『下巻』の刊行間近となった日に、角田光代の現代語訳でよみがえる『源氏物語』の魅力について語ってもらった。
突然のオファー
迷ったすえにたどり着いた
「もっとも格式がない、読みやすい訳に」
きっかけは『日本文学全集』の編者である池澤夏樹から「現役の作家に訳してもらいたい。角田さんはどうだろうか?」と指名されたことだった。「大ファンである池澤さんにお声をかけていただいたら断るわけにはいかない。でも、すでに『源氏物語』は何人ものそうそうたる作家や研究者が現代語訳を出しています。あらたに私が訳す意味をどこに見出せばいいのか。数日考えて出した答えは、『もっとも格式がない、読みやすい訳にする』ことでした」。
平安時代の言葉で書かれた『源氏物語』は、主語がなく、尊敬語、謙遜語、二重尊敬語が入り混じった文章で書かれ、言葉の使い分けで人物の関係性をあらわしている。原書にもっとも忠実だとされているのは谷崎潤一郎の訳だが、やはり主語が書かれていないので、古典の素養がないと読みづらい。『源氏物語』のあらすじだけは知っていても、全部を読み通したという人が少ないのは、これまでの現代語訳の多くが、いまの日本人が読み書き話す言葉とはいささか離れていて読みづらく、物語の世界にすんなりと入っていけないというのが大きな理由だろう。
池澤夏樹からオファーを受けた時期は、ちょうど仕事が一段落していた時と重なるという偶然もあった。池澤夏樹監修『日本文学全集』全30巻の末尾を飾る『源氏物語 下』。やっと手を離れ、旅に出たいと語る。
「言葉の使い分けによって関係性を読み解くおもしろさは捨てよう、と決めました。だから主語も入れていますし、現代の私たちが日常的に使う言葉で書くことを心がけました。いま生きている人たちが、すらすらと読んで物語の世界に入っていける作品に仕上げたつもりです」。角田源氏では、女性たちは会話で「〜なの」「〜だわ」という言葉づかいで話すなど、性別や身分によって使う言葉が書き分けられているので、誰が誰に向かって話しているかがわかる。おかげで現代小説と同じリズムで読み進めていける。大部の物語を最後まで読み通せるよう、現代人の読者への配慮が行き届いているのだ。
『源氏物語』と同じ時代に生きた菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)の記した『更級日記』には、十代のころ『源氏物語』を読みたくて読みたくて、やっと手に入って天にも昇るほどうれしいという記述がある。『源氏物語』は、当時の貴族社会の人たちが夢中になってむさぼるように読みふけった大ベストセラーだった。
「その時代に、若い貴族女性たちはもちろんのこと、多くの人たちが『源氏物語』に夢中になったのは、おそらく光源氏をはじめとする登場人物の姿が、読みながら具体的に思い浮かんだからだと思います」。角田源氏は、平安時代の人たちの感性や世界観からかけ離れた日常を送っている現代人でも、登場人物に感情移入できるような訳となっている。それは角田の力量によるところが大きいが、それ以前に紫式部の作家としてのうまさとすごさだと角田はいう。
『日本文学全集』の中で江國香織が現代語訳を担当した『更科日記』を読み、当時の若い貴族女性たちが『源氏物語』に熱狂していたことを知ったという。もし『日本文学全集』の中から作品を選べていたら『雨月物語』をやってみたかった。理由は「好きですし、短いから」。
紫式部は
小道具の使い方がうまい
ストーリーテラー
「顔を見ないで、歌のやりとりだけで恋が始まってしまう平安時代の物語に現代人が共感するのはむずかしいところはあります。それでも『源氏物語』がこれだけ長く読み継がれてきたのは、時代によって、読み手によって、いかようにも読める懐の大きさがこの物語にはあるからだと思います。たとえば現代の私たちに、平安の朝廷内のことや当時の慣習、あるいは宗教行事への知識がたとえなくても読めてしまうのは、紫式部がある意味それらをストーリー展開させていく小道具としてうまく利用しているからです」。たとえば当時、病気や災いを避けるために、占いや陰陽道によって外出をさけるべき日は「物忌み」とされて家にこもったり、方向が悪ければ「方違え」して経由地を通ったりする風習があったが、そういう風習などが、次のできごとへと展開させる「しかけ」としても読める、と角田はいう。
「「宇治十帖」で、浮舟のところに匂宮がおしのびで滞在しているとき、浮舟の母親が訪ねていこうと使いを寄越し、あわてたお付きの女房が「今は(浮舟は月経で)物忌みです」と伝えるくだりがあります。それを聞いた母親は、「月経があるということは、妊娠しているわけではないな」と安心するのです。「物忌みです」という女房の一言で、母親は、まさか娘が匂宮と関係を持ったとは思わず、このまま無事に薫に引き取られると安心し、それでますます浮舟は追い詰められる。作者の紫式部が、千年後の読者のためにそんな「しかけ」をしたはずはありませんが、でも、現代の私たちが読むときの伏線になるところがおもしろいです」。
角田は小説を書くときに、書いている人物と距離をとって感情移入をしないのだという。『源氏物語』を現代語訳しているときも、登場人物にとくに肩入れしないで淡々と訳を進めていった。しかし、どうしても許せない、大嫌いな人物がいた。いつもフラットで、おだやかな角田光代をして「自分でもびっくりするほど嫌いになってしまった」とまで言わせしめた、意外なその人物とは誰か? そして「たぶん作者である紫式部しか知らない」その人物の実像とは?に、後編では迫っていく。
毎日仕事場に出勤し、執筆にあたる。一日の終わりはレモンサワーでのどを潤わすのが楽しみ。
角田光代 Kakuta Mitsuyo
1967年、神奈川県生まれ。90年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞し、デビュー。著書に『対岸の彼女』(直木賞)、『八日目の蝉』(中央公論文芸賞)、『紙の月』(柴田錬三郎賞)など多数。
◆『角田光代訳 源氏物語 下』
2020年2月25日刊行2017年に上巻、2018年に中巻、そしていよいよドラマティックな物語が展開する「宇治十帖」を含む下巻が刊行される。源氏亡きあと、宇治を舞台に源氏の息子・薫と孫・匂宮、姫君たちとの恋と性愛が描かれる「宇治十帖」が、角田光代の現代的な筆致で浮かび上がる。感情に引き付けて読める自然な訳文のため読みやすく、『源氏物語』通読にトライして何度も挫折した人でも読み通すことができると評判だ。『角田光代訳 源氏物語 上』、『角田光代訳 源氏物語 中』上記2点いずれも定価3,850円(本体3,500円)、『角田光代訳 源氏物語 下』2020年2月25日刊行予定 予価3,850円(本体3,500円)。河出書房新社刊。 『源氏物語』特設サイト http://www.kawade.co.jp/genji/
Text by Motoko Jitsukawa
Hair &Make Yosuke Nakajima(Perle Management)
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