山科家古文書山科家古文書

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衣紋道山科流30代若宗家、山科言親が繙く宮中年中行事と公家文化

2025.10.20

悠仁親王殿下が成年式で召された御装束の衣紋は、山科流でした。

宮廷装束における男性装束の正装「束帯」の一式です。装身具にも様々な工芸の技術が結集しており、それらを組み合わせることでひとつの装いが完成します。最も上に着る袍は黒色で四位以上の官人が着用しました。この袍は腋の部分が縫ってある仕様で文官が着用するものです。

山科家は平安時代末期より、公家の家職として宮中装束の誂えと着装法を担う「衣紋道(えもんどう)山科流」を、京都の地で受け継いできました。初代より30代を数える若宗家、山科言親(ときちか)さんが、宮中や公家社会で行われてきた折節の行事や、連綿と伝えられたてきた文化などを、山科家に残る装束や古文書などともに、繙いていきます。


悠仁親王殿下の成年式のご様子と、装束の詳細について注目が集まりました



本年9月6日には悠仁親王殿下の成年式が行われました。現行の皇族の成年式となった戦後においては、父宮の文仁親王殿下以来の40年ぶりの男性皇族の成年とあって、その儀式の様子や装束の詳細についても注目が集まりました。悠仁親王殿下の召された御装束は加冠をされる前後で二種類あり、衣紋はいずれも山科流でご着用になりました。



衣紋は中世から近世にかけて山科流と髙倉流の二流派が成立し現在に至っています。茶の湯を考えると、茶を飲むという一つの行為に対して、様々な道具が発展し、その様式や扱う作法などによって多くの流派が存立していますが、まさに衣服を着用することにも同じように知識や技術が蓄積されるにつれて、少しずつ差異が生まれていきました。



例えば今回の悠仁親王殿下の御装束姿では、袖の襞が二つ取られているところに山科流の特徴が出ています。宮廷装束は一つの大振りな装束を折り紙のように身幅、身丈に合わせて美しく着こなす必要があります。最も上に着る袍の袖の部分は普通に羽織るだけでは手が出ないほど長い仕立てとなっており、手が出る長さを見計らって余った部分を整えることを致します。


山科家古文書 山科家古文書

近代以降の皇室の成年式は、明治42年に定められた皇室成年礼において次第が確立しました。その後装束の色などの詳細について新たに規定していくにあたり、大正8年に行われた裕仁親王(昭和天皇)の成年式に向けて装束の考証が行われ、大正6年から当時の宮内省との間でなされた書簡のやり取りが保存されています。この宮内省の便箋には成年式に用いる装束の一覧が記載されており、今回の悠仁親王がお召しになられた浅黄色で雲鶴紋が織られた「闕腋袍(けってきのほう)」などが目録に見えます。@Yamashina


山科家先祖の日記には、戦国期の元服装束に関する記事があります


江戸時代以前の成年にあたる儀礼は元服でした。先祖の日記にも元服の儀式の装束については様々な記録が残されていますが、今回は戦国期の正親町天皇の第一皇子であった誠仁親王の元服装束に関する記事を以下にご紹介しましょう。

 



『言継卿記』永禄11年(1568)12月18日条

「晩景御元服御服共持参、自車寄御方御所御庇へ女官両人昇之、以目六万里小路大納言に渡之、目六如此、

御わらはしやうそく 一、御かうふり 一、御なをし、同御こし 一、御さしぬき同はらしろ四すち 一、御下のはかま 一、御こもとゆひ  御おとこしやうそく 一、御かうふり 一、御なをし、同御こし 一、御さしぬき 以上

今日御兒おしみ御盃参、各御樽進上云々、暮々参内、於御三間有之(以下略)」



ここでは目六(録)に記された装束の詳細は割愛しますが、装束が二種類用意され、「御わらは(童)しやうそく(装束)」から「御おとこ(男)しやうそく(装束)」に改めて、「元服」の名の通り大人の衣服を始めるということが重要であることがうかがえます。



当日を迎えるまで元服に必要な装束の準備に関するやりとりも記録されており、職務として入念に準備して調進に当たった様子が分かります。興味深いのはこの日に「御兒おしみ」と称した宴会が行われていることで、親王の童形姿の最後を惜しみつつ見納めるという節目を祝う気持ちで廷臣達が集ったようです。

 


山科家古文書 山科家古文書

江戸時代後期に山科流の衣紋を習っていた門弟をまとめた帳面です。衣紋における秘伝ごとに、その伝授を授けた日付や人物の所属が記されています。この門弟帳では各藩大名家の家来の名前が数多く登場しており、当時の衣紋に対する関心の高さがうかがえます。


山科家古文書 山科家古文書

山科家の衣紋門弟になる者が提出する誓紙の見本です。門弟本人の親兄弟と雖も授けられた事を教授してはならないなど、入門に際しては一定の取り決めがありました。このような内容の誓紙は他の芸道などについても同様のものがあった事が知られています。



天皇皇后両陛下の大宮御所ご滞在と重なった、今年の中秋の名月。満月の月光が御所を明るく照らしていました



さて、旧暦8月は中秋の名月を鑑賞する文化があります。江戸時代の宮中でも月御覧と呼ばれ、奥向きとはいえお月見自体がひとつの年中行事となっていました。天皇は茄子に萩で穴を開けられ、その穴から和歌を三回唱えながらご覧になるという面白い風習がありました。今年の中秋の名月の折は、天皇皇后両陛下の大宮御所ご滞在と重なり、満月の月光が御所を明るく照らしていました。


中秋の名月 中秋の名月

今年の9月8日には皆既月食を全国的に見ることができ、藤原道長の邸宅があった「土御門第跡」から眺めました。現在の京都御所の清和院御門を入った北側に土御門第跡の駒札があり、そこから南側の現在の仙洞御所にあたる場所が当時の道長邸でした。かの有名な望月の和歌を詠んだとされるゆかりの場所で道長の気分を追体験することができました。@Yamashina


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有栖川宮熾仁親王(1835―1895)筆の和歌懐紙です。寄月祝という題で「天の原てりそふ月のひかりこそ くもらぬ御代の鏡なりけれ」と詠まれています。有栖川流と呼ばれる宮家で伝承されてきた独特の書風が表れています。昨年、東京広尾にある広尾プラザにて京都の老舗が出展する京都フェアが催され、広尾にある有栖川公園にゆかりのということでこの和歌がフェア全体のテーマとなりました。掛軸は姫宗和ともいわれた金森宗和の公家茶の流れを汲む宗和流18代宇田川宗光氏が監修されたお茶席にて飾られました。@Yamashina


かつては旧暦8月15日の中秋に、「石清水放生会」が開かれていました



この旧暦8月15日の中秋に江戸時代まで行われた祭典が石清水八幡宮の石清水放生会です。現在は新暦の9月15日に勅祭の石清水祭として執り行われていますが、旧暦で行われていた折には毎年満月が煌々と輝く下、男山から神様をお迎えしていたことになります。石清水八幡宮は神仏習合でしたので、かつての男山には数多くの坊が存在しており、仏教儀礼も行われていました。放生会は殺生を戒める仏教の法会ですが、現在も神職の方々により神社の側を流れる放生川にて催されています。



石清水祭は明治維新後に従来の形で行うことが困難となり、名称が変更されるなど混乱した時期がありましたが、明治17年に明治天皇の旧儀保存の思し召しにより、勅使をお迎えする伝統に則った祭典が再整備された経緯があります。このように儀式が大切に残されたことは、実践的な形での衣紋の技術伝承にとって大変意義深い場となっています。

 


石清水八幡宮 石清水八幡宮

夜を通して行われる石清水祭には松明のもと男性装束の正装である束帯を着た諸役が多数参列します。かつての朝儀の雰囲気を彷彿とさせる貴重な祭儀が毎年行われることで、衣紋の技術をはじめ特殊神饌の調進など様々な伝統が守り伝えられています。@Yamashina


御所の東エリアにて秋虫の音を聴く会を開催しています



ここ数年は毎年9月に御所の東エリアにて秋虫の音を聴く会を開催しています。鳴く虫の生態に詳しい先生をお招きして、虫の音の特徴や人との文化的な関わりなどを教えて頂いています。暗闇の中を歩いていくにつれて耳が澄んでいき、少しずつ聴き分けられるようになっていきます。秋の夜長には月の満ち欠けや虫の音といった身の回りの自然の移ろいを意識する時間を少し持つことで、それを和歌に詠むなどした先人達の繊細な感性の源泉に触れられる有難さを感じています。

 



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幕末の公家姉小路公知(1840―1863)筆。暁虫という題で「ひとりねのねざめ淋しきあかつきの 枕にちかき松むしの聲」「おもふごと在明の月のかげ寒み かなしきねにも 虫のなくらん」と和歌が書かれています。公知は攘夷派の先鋒として知られていましたが、文久3年(1863)朔平門外の変(猿ケ辻の変)が起こり、自宅近くの御所の北東角辺りで襲撃されました。墓所は御所の東に位置する清浄華院(山科家の菩提寺)にあります。@Yamashina






















































































山科氏 山科氏

山科言親(やましなときちか)/衣紋道山科流若宗家。1995年京都市生まれ、京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程修了。代々宮中の衣装である“装束”の調進・着装を伝承している山科家(旧公家)の 30 代後嗣。 三勅祭「春日祭」「賀茂祭」「石清水祭」や『令和の御大礼』にて衣紋を務める。各種メディアへの出演や、企業や行政・文化団体への講演、展覧会企画や歴史番組の風俗考証等も行う。山科有職研究所代表理事、同志社大学宮廷文化研究センター研究員などを務め、御所文化の伝承普及活動に広く携わる。


































































Edit by Masao Sakurai(Office Clover)
Photos by Azusa Todoroki(bowpluskyoto)

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