山科家は平安時代末期より、公家の家職として宮中装束の誂えと着装法を担う「衣紋道(えもんどう)山科流」を、京都の地で受け継いできました。初代より30代を数える若宗家、山科言親(ときちか)さんが、宮中や公家社会で行われてきた折節の行事や、連綿と伝えられたてきた文化などを、山科家に残る装束や古文書などともに、繙いていきます。


竪遠菱の文が縠織という紗で織られており、蘇芳色の生地が透けていて涼やかです。天皇が夏の御束帯を召された際に下に重ねて着られました。
幼いころは、上賀茂神社の境内でよく遊んだものでした
5月上旬の連休の頃になると下鴨、上賀茂両社にまつわる様々な行事について報道されるようになり、15日に行われる賀茂祭(葵祭)の催行が近づいてきたことを感じます。私が幼い頃は母方の祖父が上賀茂神社の宮司をしていた関係で、休日に宮司社宅で過ごしてよく遊ばせてもらいました。神馬舎(しんめしゃ)で神馬に人参をあげたり、境内を流れる、ならの小川に浸かったり、自然豊かな境内が遊び場でした。
5月5日には肩車をしてもらって見物した競馬の風景を思い出します。小さい時分には神事のことなど何も知るはずもなく、ただはしゃいでいただけでしたが、馬と「乗尻」と呼ばれる騎手の躍動感や観客の歓声などは臨場感あるものとして心に残っています。


「埒(らち)」と呼ばれる策の中にいる左方と右方の乗尻がこれから駆け出そうとしている瞬間です。競馬は天下泰平・五穀豊穣を祈り宮中の武徳殿で5月5日に催されたのを起源とし、騎手の乗尻が左方と右方に分かれて勝負します。乗尻の装束は舞楽をする近衛府の官人の姿で、左方が赤色、右方が青色のものを着用します。
賀茂祭は、王朝人にとって更衣を喚起する行事のひとつでした
さて、賀茂祭は祇園祭・時代祭と共に京都三大祭りにも数えられますが、三勅祭(春日祭・賀茂祭・石清水祭)と呼ばれる格式の高い祭りの一つになります。勅祭とは天皇のお使いである勅使が派遣されて執り行われるお祭りのことです。もとは旧暦の4月中酉の日に行われていましたが、現在は5月15日が祭日となっています。
ちょうど旧暦4月1日が夏物への更衣(衣替え)の時期にあたることもあり、斎王の御禊が行われる頃や賀茂祭の祭日が往時の王朝人にとっては、更衣を喚起する行事のひとつとして考えられていました。まさに京都の初夏を代表する祭典であり、様々な種類の華やかな宮廷装束を着た人々や牛車の行列を実際に見て、御所文化の雰囲気を感じることができる機会となっています。


御腰輿に乗って移動する十二単姿の斎王代。斎王は賀茂社にお仕えした未婚の皇女で、その代わりの役に当たります。昭和31年に女人列が加えられて以降、その中心として毎年注目を浴びています。写真は昨年の賀茂祭。


夏用の女房装束と几帳を調進する際に記された目録になります。旧暦4月になると宮中の調度品を含め夏の仕様になりました。©Yamashina
賀茂祭当日は御所へ参内し、参役者の装束の着装(衣紋)で大忙しです
賀茂祭の当日は朝早くから御所へ参内し、各部屋で参役者の装束の着装(衣紋)を行います。祭りの行列が出立してからは、下鴨神社と上賀茂神社へ先回りして行列の到着を待ちます。衣紋の担当者は靴の履き替えや装束の着脱などをお手伝いし、限られた時間の中で儀式の進行と休憩が段取りよく行われます。
全ての儀式が終わり、御所へ帰る頃には日が暮れ始めています。一日がかりの雅やかなお祭りですが、装束以外にも各専門に分かれた沢山の裏方の尽力あってのお祭りです。
また、現在も京都に残った旧公家が輪番で天皇のお使い役である近衛使代や御祭文を奉持する内蔵使などの役を担っています。お祭りに参役される方には旧社家や宮中、公家に代々お仕えしていた家の末裔の方々がおられ、時代が変わってもそのような歴史的なご縁が緩やかに続いていることを毎年実感します。
お祭りへのご奉仕のために京都へ帰ってこられる方もおられ、祭りが行われることは地域の紐帯を維持し、地縁を再認識する場としても重要な意味を持っています。


江戸時代後期の公家、植松雅言(1827―1876)筆の和歌詠草です。「神山のあふひのかつらながき世の ためしにかくるたますだれかも」と上賀茂神社の神山の葵を詠んでいます。植松家は「日本生花司 松月堂古流」という宮中献花の流れを汲む華道の家元として続いています。©Yamashina


賀茂祭で騎馬して進む近衛使代の姿。昨年父がその役を務めた折の写真です。冠には葵桂を挿頭しています。装束は更衣(衣替え)後で夏の仕様になります。上に着ている黒の闕腋袍は穀織という紗の生地で見た目は涼やかですが、路頭の儀では馬上で移動するだけに、日中の暑さは免れません。
江戸時代、山科家の先祖も、賀茂祭当日はいろいろ忙しかったようです
江戸時代の先祖の日記を見ると、近衛使に選ばれた公家に頼まれて祭の装束を制作したり、当日の衣紋を行ったりしている様子が記録されており、当時の先祖も色々と忙しくしていたようです。
江戸時代前期に賀茂祭が再興されて以降、当家では賀茂祭の勅使になった公家へ褒賞として下賜される禄の「衵(あこめ)」という装束を例年調進していました。衵は男性装束の内着として着られるものです。現代では装束が下賜される文化は無くなってしまいましたが、三勅祭のひとつの春日祭では勅使が真綿の禄を頂戴して肩にかけるという貴重な所作が残っています。


賀茂祭の勅使が当日に賜る禄の衵の調進について記された折紙です。例年は2月に準備が始められ、祭の前日には調進される慣習でした。©Yamashina
江戸時代の賀茂祭の様子と現代で異なるのは、行列が参向する道中の「路頭の儀」と神社内で行われる「社頭の儀」以外に「宮中の儀」が存在していたことです。天皇が御引直衣という装束姿で出御され、行列が御所を出発する前に賀茂社へ奉納される舞楽や飾馬などを簾中から御覧になって確認されました。さらに南門(建礼門)に設けられた御覧所へ仮廊下で移動され、進発の様子を御覧になることもあったようです。
宮廷社会には文化伝承の復元力を担保する仕組みがあったのでは……
賀茂祭は応仁の乱後、明治維新後、戦中から戦後にかけてと大きく分けて3回の断絶を乗り越えて伝承されてきました。その度に先人達により時代考証が行われ、徐々に現行の姿が形成されてきました。祭りの再興に携わった人々の記録など、立ち返って参照すべき資料を意識的に後世に伝え残すことにより、諸条件と人々の思いが整えばいつでも再興できるようにしておくという長期的な時間軸に立った視座がそこに存在しています。宮廷社会には文化伝承における復元力を担保しうる鍵となる仕組みがあるように思います。


江戸時代前期から中期にかけての公卿・国学者であった野宮定基(1669―1711)筆の和歌懐紙です。「すえとをきはるのみ山にうごきなき 御代をゆづるの千世は幾ちよ」と詠まれています。野宮定基は応仁の乱後に断絶していた賀茂祭の再興に向けて研究を重ねた公家で、元禄7年(1694)に再興された際には自らが勅使として参向するなど尽力したことで知られています。©Yamashina
賀茂祭が中絶していた時代はどのような様子であったのでしょうか。その頃の先祖の日記を読んでみると、関連する下記のような記事が見られます。
『言継卿記』天文19年(1550)4月14日条
「鴨社務祐春卿、同祝秀行卿、明日祭之葵桂等送之」
日記の記載によると、賀茂祭が中絶していた戦国時代であっても、鴨社の社家の者からは賀茂祭の前日に葵の葉と桂の枝が家へ届けられていました。同じく宮中にも到来しており、簾などに掛けて飾られたと記録が残っています。宮中での儀式や行列が無い時代においても、古からの賀茂社との繋がりを確かめ合い、祭りの風情を想起させてくれる象徴は嬉しい贈り物であったに違いありません。
葵は「あふひ(逢ふ日)」。神や大切な人に逢う日と考えられていました。
古くから賀茂祭を代表する葵は「あふひ(逢ふ日)」という意味でも使われ、神や大切な人に逢う日として和歌などで詠まれてきました。最近の私にとっては、お祭りの中で様々なことを教えてくださった今は亡き方々との思い出が浮かぶこともあり、そのような先人達と出逢う日でもあると感じています。


三條實萬(1802―1859)筆の和歌短冊です。「人もみなかつらかざして千早振 かみのみあれにあふひ也けり」という紀貫之の葵祭を詠んだ古歌が書かれています。短冊には賀茂社の御神紋である二葉葵が摺られています。装飾ひとつにもこだわりを感じさせます。


山科言親(やましなときちか)/衣紋道山科流若宗家。1995年京都市生まれ、京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程修了。代々宮中の衣装である“装束”の調進・着装を伝承している山科家(旧公家)の 30 代後嗣。 三勅祭「春日祭」「賀茂祭」「石清水祭」や『令和の御大礼』にて衣紋を務める。各種メディアへの出演や、企業や行政・文化団体への講演、展覧会企画や歴史番組の風俗考証等も行う。山科有職研究所代表理事、同志社大学宮廷文化研究センター研究員などを務め、御所文化の伝承普及活動に広く携わる。
Photos by Azusa Todoroki(bowpluskyoto)
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