山科家古文書山科家古文書

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衣紋道山科流30代若宗家、山科言親が繙く宮中年中行事と公家文化

2025.6.24

旧暦5月の端午の節句に行われていた「菖蒲御殿(しょうぶのごてん)」とは

幕末の御所の地図で、左にある大きな敷地が内裏になり、「禁裏御所」と書かれています。江戸時代の山科家の屋敷は内裏から北に位置しており、地図では今出川通りに面して、近衛家の北、冷泉家の東隣に「山科殿」と記されています。現在、跡地には同志社大学の校舎が建っています。

山科家は平安時代末期より、公家の家職として宮中装束の誂えと着装法を担う「衣紋道(えもんどう)山科流」を、京都の地で受け継いできました。初代より30代を数える若宗家、山科言親(ときちか)さんが、宮中や公家社会で行われてきた折節の行事や、連綿と伝えられたてきた文化などを、山科家に残る装束や古文書などともに、繙いていきます。



6月(旧暦5月)になると、白川や疎水あたりでは蛍が見られます



6月(旧暦5月)になると梅雨時を迎えます。白川や疎水のあたりの夜道を歩くと、蛍が飛び交うのに出逢うことがあり、足を止めて静かに眺め入ります。源氏物語には「蛍」の帖がありますが、昨今の京都の町中では蛍が生息している場所は限られていますので、平安時代の環境で蛍はいかほどであったのか、つい想像が膨らみます。

山科家文書 山科家文書

入江為守が「雨後蛍」という題で詠んだ和歌です。「あめすぎしかたやまはやしくれそめて とぶや蛍のひかりながるる」と書かれています。表具には蛍を思わせるような金襴の裂を取り合わせています。為守は冷泉家から分家の入江家に養子に入り、東宮侍従長や御歌所長などを歴任しました。山科家26代言綏(ときまさ)夫人の姉弟であったことから、多くの和歌が遺されています。©Yamashina




徐々に日中の暑さを感じるこの頃、割れた氷室の氷を表した京都発祥の「水無月」や紫陽花などの季節の花をかたどった美しい菓子が菓子屋の店頭に並び始めます。この時季になると、宮中ゆかりの味としては川端道喜さんの「粽(ちまき)」が頭に浮かんできます。




現代では様々な形態のお店が、和菓子屋さんとして一括りにされることも多くなっていますが、道喜さんは宮中に様々な餅を納める餅屋で、とりわけ江戸時代以来「御粽司」と称されるほど粽が代表として知られています。



代々御所に出入りしていた職人や商人は、朝廷から「受領名」を拝領します

 



代々御所に出入りしていた商人や職人の特徴の一つとして、朝廷から受領名を拝領し代々名乗っていたことがあります。京都の老舗では西本願寺前にある亀屋陸奥さんのようにその名残の名称が付く店もありますが、現在はそのような御用達の歴史が表立って語られることが少なくなり、知る人ぞ知るという様相です。



例えば川端道喜さんは代々「出羽大掾(だいじょう)」、虎屋さんの黒川家では「近江大掾」というように称し、御所の近くに店を構えていました。そのような名乗りの文化は各々の家業に箔を付けることにつながったと言われています。御所の御用への特別な思いや信頼関係に気付かされます。

禁裏出入りの札 禁裏出入りの札

御所の御用商人が使用した木製駒形の「御門鑑」。いわゆる通行許可証にあたり、表には墨で禁裏御所と書かれ、裏面には商人の名前が記されています。同様のものが虎屋さんにも伝来しており、当時の御用商人の在り方を伝えてくれます。


戦国時代、川端道喜さんと山科家はご近所さんでした




数年前に道喜さんの粽を購入した際に詳細な由緒書きが付いてきました。この由緒書きにはこの連載でも度々紹介している先祖の日記『言継卿記』が紹介されており、道喜さんと家の関係を調べるきっかけを頂きました。




戦国時代には現在の御所の位置からすると北西の辺りに、公家衆や商工業者が一帯に集住した町が形成されており、道喜さんの初代の構えた店と当家の屋敷はご近所さんであったようです。日記にはそのご近所付き合いのよしみで、創成期の道喜さんの様子が折に触れて登場します。




『言継卿記』天文21年(1552)6月21日条

「餅屋四郎左衛門薬拂底之由申候間、同薬七包遣之、同愛洲薬廿服遣」




ここに登場する餅屋が川端道喜さんと言われており、この時は先祖が薬を処方して道喜さんに遣わしています。医薬の知識に長けていた13代当主言継(ときつぐ)は戦乱の世に生活の足しにするために薬を自ら調合しており、近隣の人々に所望されると処方や診察などを行っていました。



このような気軽なご近所付き合いを知ると、公家と町衆が助け合って時代の荒波を乗り越えようとしていたことが分かります。京の町々との関係性の近さにより育まれた文化が、後の宮廷社会にも様々な影響を与えていったと言えるでしょう。

道喜門 道喜門

御所の建礼門の右にひっそりと位置する道喜門。歴代の川端道喜さんがここから入り、毎朝天皇の御前へ「御朝物」と呼ばれる餅を明治初期まで届けていました。何気なく歩くと通り過ぎてしまいますが、戦国時代以来の由緒を持ち、御所と町との繋がりを静かに語っています。©Yamashina



室町時代、先祖はどのような端午の節句を送っていたのでしょうか?


さて、この時季の宮中行事として一般的にも馴染み深いのは、5月5日の端午の節句になります。現在、わが家で行っているのは菖蒲湯につかることくらいで、子供の頃は母が兜の飾りをしてくれていたのを思い出します。




はたして先祖はどのような端午の節句を過ごしていたのか、少し気になりましたので各時代の日記を辿ってみることにしました。室町時代初期の7代当主教言(のりとき)の日記『教言卿記』を見てみましょう。

 




応永14年(1407)5月5日条

「一 河内御厨粽、廿五把到、目出ゝゝ」




ここでは、河内国で管理していた所領からわざわざ粽が25杷届けられており、目出度いことと喜んでます。同じ日には同僚の公家の花山院忠定より100杷送られており、端午の時期には公家や武家、寺社の間で贈答し合うものとして「粽」が既に欠かせないものになっていたようです。さらに同日続けて、



「一、北山殿今日菖蒲御湯、任先規下宿所、伊勢入道、御成風呂云々(下略)」




とあり、足利義満(北山殿)が側近の伊勢定行(伊勢入道)邸で菖蒲湯に入ったことを伝聞して書き留めています。時の将軍の動静となれば、入浴まで話題になっていたということは興味深いですが、当時の人々も菖蒲湯を大切に考えていたことが分かります。


また、歴代の日記には端午の節句に「菖蒲刀」や「薬玉」といったゆかりの品々についての記述も見られるようになり、これらの品々も親類や家来から男児に送られることがあったようです。身近な人々が子供の成長を祈り、見守る温かな気持ちが伝わってきます。



菖蒲 菖蒲

毎年咲くと見に行くのが楽しみな碧雲荘の花菖蒲。人目に触れにくい場所ですが、絵画や工芸品の題材を思わせるように美しく群生しています。©Yamashina




山科家宝物 山科家宝物

八ッ橋の情景を蒔絵した棗。箏曲家の八橋検校の墓所がある金戒光明寺にて、フランスからの客人に薄茶でおもてなしをした際に用いました。歴代上皇の住まいである仙洞御所の南池にも藤棚に覆われた八ツ橋が架けられています。©Yamashina



現代では馴染みのない「菖蒲御殿(しょうぶのごてん)」とは?



江戸時代の年中行事書にある端午の節句を見ると、宮中や公家では「菖蒲枕」や「菖蒲御殿」と呼ばれる、現代では馴染みのない風習があったことが知られます。ここでは菖蒲御殿について少しご紹介しましょう。




菖蒲御殿は「菖蒲輿(しょうぶのこし)」ともいい、御所の清涼殿東面と内侍所西面の軒先に立てられた小さな仮設の御殿です。皮付きの杉の柱を立てて屋根付きの御殿を拵え、その上に蓬と菖蒲を束ねたものを乗せて飾ったものです。絵で描かれたものを見ると仕様が色々とあったようですが、邪気払いの意味を込めて、香り高く薬効のある植物が建物に飾り立てられました。

古の人々が季節の植物の姿や香り、効能などを細やかに観察し、生活の節々に自然から頂く力を取り入れて、思いを託していたことがよく分かります。


菖蒲御殿 菖蒲御殿

明治期の絵師である児島清文(蔵六)筆。「菖蒲御殿」と聞いても、なかなか想像がつきにくいものですが、素朴な描写からもどのような風情であったのかが偲ばれます。©Yamashina


山科家文書 山科家文書

岩倉具視の養父である岩倉具慶(ともやす)筆。菖蒲御殿を歌題に「君が代の長き根ざしの菖蒲草 みつぎもつきぬためし成けり」と詠まれています。長き根ざしがめでたい象徴と考えられていました。©Yamashina



「以前は町中でも屋根に菖蒲を葺く「軒菖蒲」をする家が何軒かありました。それは、宮中で行われていた菖蒲葺やこの「菖蒲御殿」が由来です。ただ、近年はそうした家を見かけることも少なくなりました。

 


江戸時代の公家町の様子を、ぜひVRで体験してください



今回、これらの年中行事が行われていた江戸期の御所の地図をご紹介しましたが、現在は公家町のあった場所の多くが松林などになり、環境省を中心に京都御苑として管理されています。京都御苑の南西角にあたる旧閑院宮邸跡には、環境省京都御苑管理事務所があり、併設して閑院宮邸跡収納展示館が一般公開されています。




こちらの展示館は3年前にリニューアルオープンされ、私も展示内容の監修として携わらせて頂きました。特に「VR公家町」は江戸時代の公家町の様子をVRで再現した試みで、視覚的に時空の旅をしながらお楽しみ頂けます。京都御苑に立ち寄られた際には、こちらの映像をぜひご覧頂き、そのあとに御所を散策されることをおすすめしたいと思います。

 

































山科氏 山科氏

山科言親(やましなときちか)/衣紋道山科流若宗家。1995年京都市生まれ、京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程修了。代々宮中の衣装である“装束”の調進・着装を伝承している山科家(旧公家)の 30 代後嗣。 三勅祭「春日祭」「賀茂祭」「石清水祭」や『令和の御大礼』にて衣紋を務める。各種メディアへの出演や、企業や行政・文化団体への講演、展覧会企画や歴史番組の風俗考証等も行う。山科有職研究所代表理事、同志社大学宮廷文化研究センター研究員などを務め、御所文化の伝承普及活動に広く携わる。


































































Edit by Masao Sakurai(Office Clover)
Photos by Azusa Todoroki(bowpluskyoto)

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