創業40余年で銀座に2店舗を構え、日本で初めての男性きもの専門店を成功させた業界の先駆者でもある「銀座もとじ」。Premium Japanでは折に触れ「銀座もとじ」を取材してきたが2022年秋、初代の息子である泉二啓太氏が2代目社長に就任するというニュースが飛び込んできた。彼が手がける新プロジェクトのこと、きもの業界の未来図など、2代目としての意気込みをインタビューする機会を得た。
海外で初めて見つめ直した日本文化と家業
1979年、啓太氏の父・弘明(こうめい)氏が銀座に創業した「銀座もとじ」。かつて陸上選手であった弘明氏は、マラソンの距離42.195㎞になぞらえ42年195日で社長の座を譲ると明言し、2022年9月に2代目社長に就任したのが泉二啓太氏だ。
かつては家業を継ぐとは思ってもいなかったという泉二氏。「父はレストランも海外旅行も、授業参観でも365日きもの。子供時代はとにかくそれが嫌で、家業が呉服屋ということも言いたくなかったぐらいです(笑)」
弘明氏からも好きなことやりなさいと言われ、事業継承も強いられることがなかったため、興味のあったファッションの勉強をしようと、高校を卒業するとロンドンの大学に留学。しかしそれが、自国の文化と家業を見直すターニングポイントになったという。
「民族衣装の授業があったんですが、きものについて友人が僕にいろいろ尋ねてくるんです。なのに僕は日本人でありながら、きものとゆかたの違いも、帯締めや帯揚げさえもわからず、何も答えられなかった。自分以上に海外の方たちは日本の文化に対しすごく興味を持ち、リスペクトしてくれることを肌で感じました。さらに当時は日本の裏原宿ブランドがヨーロッパのコレクションに進出しはじめ、高い評価を得ていた時代。日本の文化というものが、すごく誇らしく思えてきたんです」
さらに印象的だったのが、留学中に仕事でミラノを訪れた弘明氏と会ったときのこと。
「案の定、きもの姿で現れたんですが、かっこよかったんです。純粋に自分も着てみたいと初めて思いました。そこからですね。改めてきものに対する興味が湧き、自分も関わっていきたいと思うようになりました」
帰国後、入社当初は苦労も。「きものへの強い興味はありましたが、何しろ知識がまったくない。道具も織物の種類もわからず、すべてが宇宙語に聞こえていました(笑)」と屈託ない笑顔が魅力の2代目だ。
創業以来受け継がれる革新性と探求心
日本で初めての男性きもの専門店の開店や、銀座の柳を使用した柳染めなど、業界に革新をもたらしてきた銀座もとじだが、泉二氏が今でも覚えているというエピソードがあるという。
「私が小学生の時、『きものって何からできるの?』と聞いたことに父がショックを受け、当時東銀座にあった店で開催したのが「蚕飼育展」です。店の商売を2週間停止し、ちょうど1反分の生糸となる3,000頭もの蚕を店で飼育して公開したんです」
呉服屋が商売を離れ、自らが扱うきものではなくその原点を社会に知らしめるという、画期的な出来事だった。
「新聞にも取り上げられ、『もとじというお店はどこか』と聞く方も多く、4丁目の交番にはもとじまでの地図が置いてあったそうです」
その革新性と探求心は現在にも続いている。そのひとつが、純国産の雄だけの蚕の品種“プラチナボーイ”の着物だ。雌と比べ、細くて長い光沢のある糸を吐く雄の蚕のみを孵化させる、世界で初めて成功した技術を生かしたいという依頼を大日本蚕糸会から受け、銀座もとじが商品化、プロデュースをしている。
プラチナボーイで作られた反物には、必ず1枚の証書が添えられている。そこに書かれているのは、養蚕農家から製糸、製織、染めや織りの職人まで、1つの反物になるまで関わった作り手すべての名だ。
「たとえば友禅ならその柄を描き染める作家さんなど、エンドユーザーに一番近い人たちにスポットライトが当たりますが、その前に白生地というキャンバスを作る人もいるし、蚕を育てる人もいる。そこにもスポットライトを当てることで、お客様にきものになるまでのプロセスを知っていただき、なおかつ作り手たちにとっても責任と誇りを持ったものづくりをしてほしいと思っています」
プラチナボーイの絹糸で織られた結城縮。蚕種の開発者から養蚕農家、製糸、製織、染め手、織り手まで関わったすべての人の名が書かれている
さらに泉二氏が始めたのが「プラチナボーイ物語」と称した、世界でひとつだけのきものを誂える体験型のプロジェクトだ。お客様が実際に養蚕農家や機織りの現場に行き、自分のきものがどのような工程を経て、きものとして仕上がるのかを1年かけて体験・見学していくもの。
「大人の社会科見学ですね(笑)でも養蚕の歴史や職人の実情、思いなど、もの作りの背景を知ることで、1枚のきものへの愛着も生まれます。お子さんやお孫さんもご一緒に参加していただくのも可能なので、いつかはこの1枚が継承されていく大切さも感じて欲しいんです」
出来上がった反物の証書には、作り手と共に“主(あるじ)”としてお客様の名前を入れ、1年間の記録を1冊のアルバムと共に納品する。
「将来残されたきものを、その思い出とともに着てみようかなというきっかけも作れればと思っています」
店内には先代の出身地・奄美大島から運んだはた織機が。実際に使うことができ、近隣小学校の生徒たちに体験してもらうこともあるそう。
日本の美意識“経年美化”が支えるきもの文化
また今年からはもとじで販売したきものを買い取る事業も開始する予定だ。
「職人の高い技術で時間と手間をかけて作られる本来の価値を維持するためには、セカンダリーマーケットにおいても適切な価格で流通させることが必要です。また高齢になり、もう着る機会がないという方も多くいらっしゃいます。親から子へ、孫へと昔なら家族内で受け継いでいくことが難しいなら、社会全体できものを継承していく。そこにもこのサービスの意義があると考えています」
日本の美意識とは「出来たときが完成ではなく、使えば使うほど味が出てくる “経年美化”にある」という泉二氏。
「例えば紬は最初少しざらっとしてるんですが、着ていくうちにに毛羽が取れて光沢が増し、柔らかくなっていきます。それは新しいものでは出せない風合いです。だからこそ、娘へ孫へ、あるいはセカンダリーマーケットへと受け継ぐことができるんです」
きものから帯、草履や帯留などの小物まで、匠の技と泉二氏の審美眼による逸品が揃う店内。
「伝統は革新の連続」未来へ続く答えはその中に
そして今、泉二氏が注力しているのが、きものの未来に向けた「HIRAKI(啓) project」だ。第一弾では、200万年の歴史の中で2度海に沈み、自然の畏怖と悠久の時間が作り出した宮城県の採石場で採れた土で染色するなど、固定観念に捉われない実験的な試みに挑戦。きもの文化の発展を座って待つのではなく、自ら未知なるものに飛び込み、さまざまな可能性を探り提案していくことで、産地や職人の意識改革も目指す。
「伝統とは革新の連続だと思うんです。大島紬も明治時代に締機(しめばた)という技術を取り入れたことで、現在の紬の細かい絣柄を確立しています。当時は新しく前衛的なことであっても、100年150年と続けることで伝統になる。それはただ同じことを続けるのではなく、その時代の変化に対して柔軟に対応し、新たな時代との化学反応が必要なんです」
「HIRAKI(啓) project」のひとつ、宮城県の採石場「大蔵山スタジオ」で採られる石。もろく崩れる表面の土を染色で使用。
採石場で採られた土や、近隣の森や山で採られた草木を使って染められた糸と反物。
きもの業界を革新し続けてきた銀座もとじの2代目として、泉二氏が目指すのは、伝統をさらに新たな視点で見つめなおし未来へとつなげていくこと。「きものをワードローブの選択肢の一つに」「きものに関わる仕事を憧れの職業に」という入社以来掲げる理想を実現するための情熱は果てることがない。日本の美を代表するきものの未来を託された若き2代目の挑戦は、まだ始まったばかりだ。
Premium Japan発行人・島村と、きもの談義で話が弾む。
泉二啓太 Keita Motoji
1984年、東京都生まれ。「銀座もとじ」店主。高校卒業後に渡英、ロンドンの大学でファッションを学ぶ。その後、1年間パリへ渡り6年間の海外生活を経て、2008年に帰国。2009年に株式会社 銀座もとじへ入社。取締役専務を経て、2022年9月代表取締役社長に就任。日本全国の産地、作家、作り手とお客様を結ぶ懸け橋を担う。業界初・男のきもの専門店「銀座もとじ 男のきもの」のオリジナル商品の企画から開発、ヴィジュアル制作まで全てを手掛ける。
島村美緒 Mio Shimamura
Premium Japan代表・発行人。外資系広告代理店を経て、米ウォルト・ディズニーやハリー・ウィンストン、 ティファニー&Co.などのトップブランドにてマーケティング/PR の責任者を歴任。2013年株式会社ルッソを設立。様々なトップブランドのPRを手がける。実家が茶道や着付けなど、日本文化を教える環境にあったことから、 2017年にプレミアムジャパンの事業権を獲得し、2018年株式会社プレミアムジャパンを設立。
Photography by Toshiyuki Furuya
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