山科家装束山科家装束

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衣紋道山科流30代若宗家、山科言親が繙く宮中年中行事と公家文化

2025.9.2

500年前の日記が伝える、室町時代の盆の送り火

貞明皇后のご遺品で清水谷女官長へ下賜されたものとして山科家に伝わる、夏の袿(うちぎ)。包みには「御料」「大清」と書かれています。

山科家は平安時代末期より、公家の家職として宮中装束の誂えと着装法を担う「衣紋道(えもんどう)山科流」を、京都の地で受け継いできました。初代より30代を数える若宗家、山科言親(ときちか)さんが、宮中や公家社会で行われてきた折節の行事や、連綿と伝えられたてきた文化などを、山科家に残る装束や古文書などともに、繙いていきます。


私の祖父は、学習院高等科で作家の三島由紀夫と同級生でした

 

 




本年(令和7年)は昭和100年、戦後80年という節目の年を迎えています。残暑厳しき8月になると、祖父母から戦前の話などを聴いた時間を思い返します。祖父は大正14年生まれで、昭和の年号と共に年を重ねた学年となり、今年生誕100年を迎える三島由紀夫は祖父と学習院高等科でクラスメイトでした。



中学や高校の学校帰りに祖父宅へ赴いて様々な話を聴いたことは、時代の流れや息遣いを、ごく自然に目の前で触れることになりました。初めは特段意識していたわけではありませんでしたが、先祖の歩みと向き合い、現代と接続して考える上で、代え難い貴重な時間であったと感じています。祖父が語り伝えてくれた内容はいずれ別の形でまとめることができればと思い始めています。


山科家文書 山科家文書

室町時代の11代当主言国筆の短冊です。残暑という題で「秌(秋)とこそ心にはしれあつき日の かげは夏にもかはらざりけり」と詠まれています。室町時代の昔も、時には残暑が厳しかったようです。©YAMASHINA



山科家装束 山科家装束

夏の袿は、礼装の場合では裏地をつけますが、略装では裏の無いものが普通でした。皇后は宮中から賢所へ移動の時などに使用されました。



先祖の日記には、五山送り火の昔の姿が描かれています



さて、京都のお盆では有名な行事として送り火があります。祖父が亡くなった年の翌年の送り火の日には、全国放送で送り火を生中継する番組に出演するという機会を頂きました。偶然ですが、中継を行う場所が当家の菩提寺である清浄華院となったこともご先祖のお導きのように感じ、祖父の事を思い返しながら、例年にも増して送り火の灯に思いを寄せました。このような送り火の風習がどのように発展してきたのか、それを考える上で参考になる先祖の記録がありましたので、ここに少しご紹介しましょう。



浄土院木造 浄土院木造

後白河法皇の晩年の寵愛を受けた高階栄子(丹後局)の木像です。丹後局は山科家の2代教成の母で、その美貌と政治的手腕から楊貴妃にも譬えられました。晩年には浄土寺に隠遁し、浄土寺二位の尼と呼ばれました。この十二単姿の木像は銀閣寺の隣に位置し、現在大文字の送り火を管理する浄土院に祀られています。©浄土院



五山送り火 五山送り火

東山の如意ヶ嶽の大文字の送り火の様子です。当家の菩提寺がある真如堂の近くでは大文字が大きく臨めますので、そこから撮影しました。8月16日の夜、点火された五山の灯を思い思いに眺めながら、お迎えしていたご先祖の霊をあの世へお送りします。©YAMASHINA



『言継卿記』元亀2年(1571)7月17日条

「粟田口之風流吉田へ罷向之由風聞之間、暮々吉田へ罷向、大燈呂廿計有之、二間方大略有之、前代未聞驚目事也、京邊土之群衆也、四踊有之(下略)」





「粟田口から風流が吉田山へ向かったことを聞きつけて見に行くと、20基ほどの大きな燈呂が出現しており、その大きさは二間(約3.6メートル)四方であった」と記されています。お盆の頃に万灯会のように多くの灯明を灯すことは風習としては既にありましたが、それが見たことのないほどの大きさの灯籠(燈呂)が制作され始めていたことが分かります。そのような目立つ灯を山の上に持っていくという、当時の民衆の思いと行動に現代へ繋がる送り火の淵源があるように思われます。


大灯籠 大灯籠

粟田祭は毎年10月に行われる粟田神社の大祭で、平成20年には『言継卿記』の記述をもとにして、大燈呂が再興されました。このような都における作り物の灯籠の趣向がねぶたなどの各地の盆行事にも繋がっているとも考えられています。写真の灯籠は大国主命が白兎を抱えている様子を表現しています。©YAMASHINA



お盆の灯明を楽しむ文化は、宮中でも花開いていました



このようなお盆の灯明を楽しむ文化は宮中でも花開いていたようです。室町時代後期には様々な故事や和歌、自然の風景などを題材に趣向を凝らした作り物の灯籠を灯す風習が見られるようになり、その後江戸時代を通じて女官や公家の家から宮中に献上される行事となりました。以下では、宮中の盆に献上された灯籠について、日記の記事から見てみましょう。




『言継卿記』永禄11年(1568)7月14日条

「近衛殿へ内々御約束之燈呂取進之、西王母之心也、則禁裏へ進上了」

同15日条

「暮々御祝に参内、御燈呂廿餘有之、如例於議定所御盃参了」

同16日条

「従禁裏御燈呂御返拝領、竜田川紅葉乱れて流るめり渡らば錦中や絶なん心也」




このお盆の三日間では、7月の14日に灯籠を宮中へ献上し、15日には各家からの灯籠が飾り置かれたのを拝見して、御盃を頂戴、16日には灯籠のお返しがあるという流れであることが分かります。ここで登場する灯籠の趣向は、中国の仙女である西王母や古今集にある竜田川の紅葉を詠んだ和歌を題材にしていました。



また、禁裏から返却される灯籠は自分の家から献上した灯籠ではなく、他の家から献上されたものを頂くという、ある種プレゼント交換のようなお楽しみがあったようで、この事は私の5代前の先祖(言縄)が語った幕末の回想録にも触れられています。



盆の間に、公家は蓮の葉でもち米を包んで蒸した「蓮飯 」をお互いに贈答していました



日記をさらに繙くと、公家では盆の期間に蓮の葉でもち米を包んで蒸した「蓮飯」を贈答し合い、それをお供えしたり家族で食すということが慣例で行われていました。仏道に通じる植物として蓮を使い、その香りの移ったご飯を頂くというのはなかなか趣を感じさせます。昔の人々が盂蘭盆会という先祖供養の中に、このような創意工夫を凝らしたお楽しみの要素も含めて行っていたことは興味深く思われます。ご先祖様を賑やかにお迎えして喜んでもらうことが供養に繋がると考えられていたのでしょう。


私自身は、公家文化のひとつである「蹴鞠」に取り組んでいます



また、祖父から色々と話を聴いたことがご縁で、私自身も取り組んでいることには「蹴鞠」があります。蹴鞠は江戸時代に至ると宮中のみならず、地方や民間でも盛んに行われるようになっていましたが、明治時代になるとその伝承が危ぶまれる状況に陥りました。



京都を本拠地として蹴鞠を伝承している蹴鞠保存会は明治天皇の旧儀保存のご聖旨により明治40年に成立し、祖父はその会長職を務めていました。保存会では毎年京都御所の公開時やご縁のある寺社の行事で蹴鞠のご披露、奉納を行っています。



蹴鞠 蹴鞠

京都御所で行われた蹴鞠のご披露の際に行った枝鞠の様子で、蹴鞠保存会の会長を務めていた祖父言泰が楓の枝に括り付けた鞠を鞠庭の中央へ持ち進めるところです。©YAMASHINA



暑いこの時期にも蹴鞠を恒例でご披露する機会があります。それぞれ新暦と旧暦の七夕にかけて行う蹴鞠としては、蹴鞠の神である精大明神をお祀りする白峯神宮(7月7日)と平野神社(8月9日)で奉納が行われます。七夕では和歌をはじめ様々な技芸上達を星に祈ることが行われますが、その中で蹴鞠も深い繋がりをもつようになりました。




七夕の蹴鞠では、鞠を括り付ける枝(枝鞠)に梶の木が使用されます。梶は七夕には欠かせない季節の植物で、天皇や公家は梶の葉に墨で和歌をしたためました。梶は七夕の物語をもとに、天の川を渡る船を漕ぐ「舵」を音から連想したり、枝が繊維質であることから織姫の織物との結びつきで捉えられました。


梶鞠 梶鞠

禁裏御用絵師の一人であった石田友汀(1756―1815)筆で、七夕に行う蹴鞠の枝鞠として梶の枝が描かれています。この絵には蹴鞠を家職とした飛鳥井家の飛鳥井雅光が詠んだ和歌の賛「解鞠の枝の契りもいく千々の 秋につきせぬ梶の言の葉」があります。解鞠とは枝に括り付けた鞠を鞠庭にて解き放つ儀式の事です。©YAMASHINA



蹴鞠は競い合うものではなく、あくまでも「和を以て貴しとなす」が主題です

 




蹴鞠の精神を表す言葉としては「和を以て貴しとなす」とよく説明されます。蹴鞠は得点を競い、勝敗がある一般的なスポーツの在り方とは異なる発展を遂げました。相手に対して蹴りやすい鞠を上げて、一座の円にいる人々(鞠足)と穏やかな心持でいかにお互いに蹴り続けることができるのか、ということが主題となるのです。このような相手を思いやり、和することに重きを置くことを体現しようとした先人達の姿を知るにつけて、現代勃発している戦乱に思いを致さざるを得ません。

 





















山科氏 山科氏

山科言親(やましなときちか)/衣紋道山科流若宗家。1995年京都市生まれ、京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程修了。代々宮中の衣装である“装束”の調進・着装を伝承している山科家(旧公家)の 30 代後嗣。 三勅祭「春日祭」「賀茂祭」「石清水祭」や『令和の御大礼』にて衣紋を務める。各種メディアへの出演や、企業や行政・文化団体への講演、展覧会企画や歴史番組の風俗考証等も行う。山科有職研究所代表理事、同志社大学宮廷文化研究センター研究員などを務め、御所文化の伝承普及活動に広く携わる。


































































Edit by Masao Sakurai(Office Clover)
Photos by Azusa Todoroki(bowpluskyoto)

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