淡々としたしあわせ
元旦の能登半島地震の影響で、神奈川県の小田原にある実家へ二次避難した1月中旬。徐々に自分を取り戻しつつありました。まず、ひとりになる時間を持つこと。平穏な時の流れのなかで、心に余白が生まれていきました。そして、体調に合わせた食材で料理したごはんを食べること。旬を見つけたり手を動かしたりして、わくわくする気持ちを満たすことで、心身のバランスが整っていきました。いつも通りとはいかないけれど、何気なく過ごせることへの感謝でいっぱいでした。
二次避難から広がっていく世界
このような日々の連なりのなか、懐かしい方々との再会、地震が起こったからこその出会いや巡り合わせがありました。この春に開催予定だった個展がいったんは中止になりましたが、東京のギャラリー「スペースたかもり」の皆様のご協力を得て、規模を縮小して漆器を展示させていただいたこと。地震のことを話したり、手紙をしたためるような気持ちで文章に綴ったりする、この「輪島便り」の機会をいただいたこと。本来であれば黒島の自宅に冬ごもりして、漆を塗っていたはずの私にとっては、どれもこれも想像の域を遥かに超えた物事が起こりました。
2024年4月に「スペースたかもり」で開催されたミニミニ個展「
写真の糸目椀をはじめ、辛うじて被害を免れた数少ない作品が、個展では展示された。©Kayo Takashima
漆の仕事を続けたいという思いが根柢にありながらも、窓の向こうには思いもよらない風景が広がり、開けたことのない扉から新しい世界へ一歩踏み出すような心境でした。複雑な感情の葛藤はあるものの、地震と出合って、今ここに生きているからできる役回りや経験を貴く思って過ごしました。
追憶のなかで浮かびあがる今後の展望
小田原の冬は、昼間は暖房がいらないくらいに暖かく、青空のもとでは日だまりで過ごせます。一方で、能登の地では分厚いグレートーンの雲が空を覆い、雪が積もっては解けての日々をくり返します。小田原で河津桜が満開になるころ、輪島では足元の泥濘(ぬかるみ)からゆっくりと春めいていく空気を感じます。
小田原から輪島への移住。地域それぞれの季節の移ろいやその違いを楽しみながら、穏やかに土地に順応していった歳月を振り返っていました。二次避難しているこの実家で生まれ育ち、20年前に家を出たときの記憶がよみがえるとともに、すっかりと能登の風土に馴染んだ私自身に気づきました。同時に、今まで大切に積み重ねてきた土壌に根を伸ばすように、輪島の地でつくり続けようという思いは変わりませんでした。
どうしてこの選択をするのか、これからどうなるのか分からないけれど、肌に合う感覚や心の機微に向き合い、一歩ずつありのままに生きていけば、自然に道が開けていく気がしています。
漆掻きのシーズンを迎えて
漆の仕事は、季節のめぐりとともにあります。漆はウルシの木から採取した液体。この木は、日本、中国、朝鮮半島などに生育しています。春になってあたたかくなると芽吹きはじめ、ぐんぐんと枝葉を広げます。初夏に咲く小さな花々には蜂などが集まり、しばらくすると房状に実をつけます。秋に色づいた葉を落とし、冬を越します。苗を山などに植えて、10年くらいかけて大きく育った木から漆掻きをします。
山に植栽されたばかりのウルシの苗木。桜の咲く頃になると、芽吹きはじめる。
ウルシの花。黄緑色の小さな花がたくさん咲くと、ほのかに甘い香りが漂ってくる。花粉や蜜を求めて虫が集まってくる。
6月に入ると、漆掻き職人(掻きこ)さんが漆を採取する準備を現場ではじめます。作業の段取りを考え、木の周囲の下草を刈ります。漆掻きの最初の作業である「目立て」では、ウルシの幹に鎌で短い傷を入れます。この作業は、木に掻く場所のあたりをつけ、掻きはじめの合図にもなります。
そのあと1週間くらいしてから、前回つけた傷の上に2本目の傷をすこし長めにつけていく「辺付け」の作業を行います。傷口からにじんでくる漆液を箆(へら)ですくい集め、「掻き採り」をします。いったん掻いたら4日以上の日数をおいて木を休ませ、辺付けと掻き採り作業を継続的に行っていきます。木の様子を見ながら、徐々に傷の長さを伸ばしていき、秋まで漆の採取を続けます。
このように掻き採った漆は、天然素材のため個性があります。木によって採れる漆の量が異なり、また採取した時期や場所によって漆の性質も一様でなく、その特徴を漆塗りの仕事に適材適所で活かしていきます。
ウルシの植栽地(岩手県北部)。6月に入ると、漆掻きがはじまる。大きく育った木に1本ずつ傷をつけて、漆を採取していく。
鎌でつけたばかりの木の傷口からは、透き通った色、暖色、乳白色などフレッシュな色味をした液が入り混じって出てくる。この漆液は硬化して傷口を保護するとともに、褐色に変化する。
梅雨入り前、手探りしながら思いを描く
1日も早く漆塗りの作業を再開したいけれど、未だ地震の片付けや今後のことを検討している毎日。仮設の工房や住まいをどこにどのように設けるか、色々な選択肢を模索しています。物事の兼ね合いがあり、なかなか進まない現実に、草木の生い茂るスピードばかりが加速していくように感じています。草むらに今日はどんな花々が顔を見せてくれるだろうか、夕暮れどきに今日は空と海がどんな表情を届けてくれるだろうかと、日常の一コマの変化から、確かに生きている実感が湧いてきます。
散歩の途中に見つけると、つい手を伸ばしたくなる桑の実。熟した実をつまむと、甘さは控えめで、さっぱりとした味わい。
黒島港の船小屋の軒にとまっているツバメ。地形が隆起したため、船を沖に出すことができず、町のお父さん達は漁に出掛けられないままだ。
町のなかを歩いていると、地元の方々と「一緒にやっていこう!やんわりと進んでいこう」と、それぞれの状況を思いやるように、声を掛け合います。日が長くなるにつれ、虫や鳥達の動きが活発になり、呼応する声があたりに響き渡ります。家々を飛び交う巣立ち前のツバメの子ども達。この町に暮らす人々の様子を上空や軒下からどんなふうに眺めているのでしょうか。
この星のめぐりのもと、どんな生きものも連関し合っているように、この環境で暮らしと仕事を両輪で進めていくことを思い描き、これからの居場所を目指します。
グリーンピースをさっと茹でると鮮やかな緑色になり、真珠のようにつるつるした質感に。ほのかに甘く香り高い豆と炊き立てのごはんを合わせ、欅(ケヤキ)の木目を活かした自作の漆皿に盛りつけた。
青々とした茗荷(ミョウガ)の若芽の味噌汁と自作の漆椀。香味野菜の花茗荷と変わらぬ風味がする。
photography by Kuninobu Akutsu
秋山祐貴子 Yukiko Akiyama
神奈川県生まれ。女子美術大学付属高校卒業。女子美術大学工芸科染専攻卒業。高校の授業で、人間国宝の漆芸家・故松田権六の著作『うるしの話』に出合ったことがきっかけとなり漆の道に進むことを決意する。大学卒業後、漆塗り修行のため石川県輪島市へ移住する。石川県立輪島漆芸技術研修所専修科卒業。石川県立輪島漆芸技術研修所髹漆(きゅうしつ)科卒業。人間国宝、小森邦衞氏に弟子入りし、年季明け独立。現在輪島市黒島地区で髹漆の工房を構えた矢先に、1月1日の震災に遭遇する。
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『輪島便り~星空を見上げながら~』とは…
輪島に暮らす、塗師の秋山祐貴子さんが綴る、『輪島便り~星空を見上げながら~』。輪島市の中心から車で30分。能登半島の北西部に位置する黒島地区は北前船の船主や船員たちの居住地として栄え、黒瓦の屋根が連なる美しい景観は、国の重要伝統的建造物群保存地区にも指定されてきました。塗師の秋山祐貴子さんは、輪島での16年間の歳月の後、この黒島地区の古民家に工房を構え、修復しながら作品制作に励もうとした矢先に、今回の地震に遭いました。多くの建造物と同様、秋山さんの工房も倒壊。工房での制作再開の目途は立たないものの、この地で漆の仕事を続け、黒島のまちづくりに携わりながら能登半島の復興を目指し、新たな生活を始める決意を固めています。かつての黒島の豊かなくらし、美しい自然、人々との交流、漆に向ける情熱、そして被災地の現状……。被災地で日々の生活を営み、復興に尽力する一方で、漆と真摯に向き合う一人の女性が描く、ありのままの能登の姿です。
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