山科家古文書山科家古文書

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衣紋道山科流30代若宗家、山科言親が繙く宮中年中行事と公家文化

2026.3.13

春の訪れは、旧暦でこそ実感することができます

女性の持つ檜扇(ひおうぎ)は、檜を薄く削った板に胡粉、雲母を塗り、金銀の源氏雲と極彩色の絵が描かれます。

山科家は平安時代末期より、公家の家職として宮中装束の誂えと着装法を担う「衣紋道(えもんどう)山科流」を、京都の地で受け継いできました。初代より30代を数える若宗家、山科言親(ときちか)さんが、宮中や公家社会で行われてきた折節の行事や、連綿と伝えられたてきた文化などを、山科家に残る装束や古文書などともに、繙いていきます。


旧暦のお正月は宮中でも最も多忙な時期でした



立春を過ぎ旧暦のお正月を迎えると、いつの間にか日が長くなり、春の陽気を感じるようになります。現代では世の中の流れもあり、お正月を新暦でお祝いする方がほとんどかと思います。しかし、やはり実際の春の訪れを暦と共に体感したくなり、近年は旧暦の正月を過ぎてからの時季をより意識するようになりました。



旧暦のお正月は宮中でも最も多忙な時期でした。江戸時代には大小さまざまな行事が行われていましたが、旧暦の正月だけでも全体の約三分の一を数えるほどで、それだけ新年を迎えるということを大事に考えていたという証なのでしょう。今回はその一端をご紹介できればと思います。


山科家文書 山科家文書

山科流の檜扇では表に梅・竹・流水が描かれることが多く、親骨の先端には糸花という絹糸製の梅と松をかたどった造花が綴じつけられました。現代では蜷糸(にないと)を巻き付けて持たれることが多いですが、広げると顔が隠れるほど大振りな扇です。

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室町時代後期の山科家当主山科言国(ときくに)とその家来は、生け花の源流とされる「たて花」を熱心に行っていたことが、日記に記録されています。大きな松が神の宿る依り代として立てられていました。室町期の朝廷では菅原道真公の縁日に天神像を掛けて連歌会などを催し、そこに花も立てられました。来年には菅公千百二十五年半萬燈祭を迎えることから、今年の4月から京都国立博物館で「北野天神」と題した特別展が予定されています。(© YAMASHINA)



「歌会始(うたかいはじめ)」は、連綿と継承されている稀有な皇室行事です



テレビでも放送され、目にすることのできる新年の宮中行事としては、歌会始があります。今年は悠仁親王殿下も初めて御詠歌を寄せられました。江戸時代までは小御所(こごしょ)という建物で行われており、天皇と臣下も皆装束姿で参会していました。独特の節回しでそれぞれの歌が読み上げられて披露されますが、これを「披講(ひこう)」と言い、その役割や調子などに決まりがあります。



現在、天皇陛下の和歌は3回披講されますが、江戸時代までは7回披講されるのが慣例でした。様式は変わりながらも皇室の行事として連綿と継承されている稀有な行事と言えるでしょう。



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永禄8年(1565)正月19日に開催された禁裏御会始に際して詠まれたと『言継卿記』に記録のある和歌です。春天象という題に対し、天皇を北極星になぞらえて、「君が代のためしはかくと北に居て うごかぬ星のいく春かへし」と詠んでいます。(© YAMASHINA)

 




江戸時代の宮中ではお正月の5日には御常御殿(おつねごてん)で天皇お手づから煙草入や末広扇をお年玉として近臣に頂戴するということもありました。そのような奥向きの行事においては、天皇は袴姿に御金巾子(おきんこじ)の冠という普段の気楽なお姿で応対されたようです。


この冠は江戸後期に仁孝天皇がお使いになられたもので、「御金巾(おきんこじ)冠」と呼ばれ、天皇が日常的にお被りになる冠でした。冠の後ろにある纓と呼ばれる長く垂れる部分を、冠の上部にある巾子という部分に添わせて折りたたみ、金箔を貼った厚紙で挟み込んだ形になっています。年末に山科家の者が御所の中で作業をし、内侍所に一年安置して浄めた後、翌年1年間お被りになるという慣例でした。


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天皇の日常的な生活空間であった御常御殿の上段には、皇位の象徴である宝剣と神璽を安置する剣璽の間があり、その前に飾られた雲龍錦の裂地です。包み紙の墨書には代々山科家が調進する装束や調度の縫製を務めた高田家の名前が見えます。

 



「左義長(さぎちょう)」は、山科家とも所縁のある宮中行事でした




さて、とりわけ山科家と繋がりの深い正月の宮中行事は、左義長(さぎちょう)でした。(今日では「左義長」と記すことが多いようですが、当時は「三毬打」と記されていました)その時の様子を先祖の日記から少し覗いてみましょう。

 



『言継卿記』永禄8年(1565)正月14日条

「自山科大宅郷三毬打竹二百八十本、従武家勧修寺へ被渡之、則人相添此方へ被渡了、則三毬打申付了、大澤右兵衛大夫、彦十郎、與二郎等沙汰之、如例禁裏へ十本進上了」



山科家の所領のあった山科の大宅郷より左義長の行事に使う竹が280本も運ばれていたことが分かります。それを家来たちが準備して10本を宮中に献上していました。また、その際に山科家から女官へ添える書状の文言にも決まりがありました。天皇が書初めされた御吉書(おきっしょ)が竹と共に燃やされ、左義長の周囲には棒振りやお囃子が出る賑やかな趣向だったようです。ちなみに、大宅にあった所領跡地には現在、京都橘大学が建っています。大学構内には一画に竹が植えてあり、山科家と地域の竹の由緒が紹介されています。


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「左義長」の様子を描いた絵で装飾された飾り羽子板の一種で、「左義長羽子板」と呼ばれているものです(部分)。公家や大名の間で祝儀の贈答品として使用されていました。(© YAMASHINA)


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山科家の江戸時代の年中行事を記録した文書には、山科郷の大宅村より正月12日に宮中の左義長で使用される竹が納められることが記されています。大竹36本、小竹248本とありますので、かなり数の竹が必要であったことが分かります。

 



公家の家で行われていた正月行事を紹介します


それでは、公家の家の中では正月にどのようなことを行っていたのでしょうか。当時の山科家の『年中行事書』からその一端を知ることができます。先祖の日記を見るとまず1日未明に行水して潔斎をし、内侍所に参拝しています。また、『年中行事書』には子の刻に「内侍所へ御初穂之事」とあり、公家にとっての初詣のような位置づけとして、神鏡を奉安する内侍所への参拝から一年が始まったようです。



未明に井戸からお供えなどに使う若水を汲むことが記され、氏神を祀る邸内社の春日神へのお供えやその年の恵方に祀られた年徳棚に御洗米や御神酒のお供えをします。また、「御蔵開(おくらびらき)」や「御祝飯(おいわいめし)」、「掛鯛(かけだい)」、「御鏡開(おかがみびらき)」といった現代にも通じる用語が登場します。




その他、4日には「御寮織物師一流年頭御礼之事」、「御装束師高田出雲掾年頭御礼之事」などと記され、関係各所からの年頭御礼の挨拶が行われる日が決まっていました。「御寮織物師(ごりょうおりものし)」は、宮中の織物を担った西陣の織手で、「御装束師」は装束の縫製を担う職人でした。

 


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西陣地域の織屋の中でも天皇をはじめとする宮中の織物の御用を務められる家は、山科家が管掌する内蔵寮に属する「御寮織物司」の6家に限られていました。天保12年(1841)に内蔵頭である山科家に対して提出した文書で、御寮織仲ヶ間の中で交わした十か条にわたる取り決めが記されています。当時の最高峰の御用を務める人々の規範意識や精神をうかがい知ることのできる史料です。


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毎年正月19日には将軍から献上された鶴をまな箸と包丁を使って捌く式包丁の作法が約2時間かけて小御所の東で披露されました。宮中の台所にあたる御厨子所預であった大隅家や高橋家が隔年で担当し、ご褒美に綿を拝領する決まりでした。包丁の式が済んだ合図に紫宸殿で舞楽が始まるのが慣例で、捌かれた鶴を使った料理を酒と共に頂きながら見るという流れでした。(© YAMASHINA)

 


7日の未明には「ナツナハヤシ」をして「朝飯粥」が登場することから、歌いながら春の七草を切って七草粥を食べる風習も行われていました。

しかし、当主は勤め先の宮中での行事に連日出仕していますので、家の行事は家来などに運営を任せていたと考えられます。このような行事は役所とも呼ばれた公家の家政機関がしっかり存在していたからこそできうることだと思います。



本年の京都では寛永行幸400年祭が行われます



さて、本年の京都では寛永行幸400年祭が行われます。寛永3年(1626)、後水尾天皇が将軍徳川家光に招きに応じて御所から二条城へ行幸し、5日に渡り様々な行事が行われました。この時若くして山科家当主であった言総(ときふさ)も騎馬して行列に参加していました。行列は9千人もの人々が参加したとされており、今年の12月にはその一部が再現される予定です。行幸をきっかけに全国各地の諸大名やその関係者も含めて京中に入り、それにまつわる用品の注文も短期間に大量のものであったことから、その後の京都の産業の興隆や新たな文化の創造がもたらされたと考えられています。


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「冬さむみむすぶ氷のそのまゝに とけぬもおなじたきのしら糸」と詠まれている、山科言総の手による色紙。定家様という藤原定家の筆跡をまねた独特な書体で書かれています。色紙に書かれる和歌は散らし書きの空間構成もひとつの見どころになります。



徳川時代が現代に続く京都文化の安定と成熟をもたらしたわけですが、現代ではその恩恵を意識する機会はなかなか持てないかもしれません。私も行列再現のお手伝いをさせて頂きながら、この一年間で行われる関連行事などを通して、江戸期の京都を改めて見つめ直す年になりそうです。


































































































山科氏 山科氏

山科言親(やましなときちか)/衣紋道山科流若宗家。1995年京都市生まれ、京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程修了。代々宮中の衣装である“装束”の調進・着装を伝承している山科家(旧公家)の 30 代後嗣。 三勅祭「春日祭」「賀茂祭」「石清水祭」や『令和の御大礼』にて衣紋を務める。各種メディアへの出演や、企業や行政・文化団体への講演、展覧会企画や歴史番組の風俗考証等も行う。山科有職研究所代表理事、同志社大学宮廷文化研究センター研究員などを務め、御所文化の伝承普及活動に広く携わる。


































































Edit by Masao Sakurai(Office Clover)
Photos by Azusa Todoroki(bowpluskyoto)

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