山科家は平安時代末期より、公家の家職として宮中装束の誂えと着装法を担う「衣紋道(えもんどう)山科流」を、京都の地で受け継いできました。初代より30代を数える若宗家、山科言親(ときちか)さんが、宮中や公家社会で行われてきた折節の行事や、連綿と伝えられたてきた文化などを、山科家に残る装束や古文書などともに、繙いていきます。
葡萄色の地に白糸で菊の折枝と芙蓉丸の文様が織られています。
宮中において旧暦9月9日の「重陽の節句」は晩秋の代表的な行事でした
木々が色づきを深め、肌寒さを感じる頃となりました。今回は晩秋から初冬にかけての宮中行事を少しご紹介します。これまでの連載でも幾度か節句について触れてきましたが、その中でも宮中において旧暦9月9日の「重陽の節句」は晩秋の代表的な行事でした。しかし現代では五節句の中でもあまり認識されていないのが実情のようです。重陽の語意は陰陽五行で考えると奇数が陽、偶数が陰であり、十進数の中でも最も大きい陽数である九が重なる日という意味ですが、そのような考え方に馴染みがなくなったことも要因なのでしょう。
茱萸袋は重陽の節句に邪気よけとして御簾や柱に掛けたりした茱萸(しゅゆ)を入れた袋で、菊の花と実をつけた山茱萸の造花を挿します。この絵図では、菊は絹糸で作った糸花で茱萸は練玉、袋は緋の生絹で包み、直紅の平打の安田紐で結ぶという細かい仕様書きが記されています。©YAMASHINA
この時期に咲く菊は香り高く、薬効があることで知られ、実際に生け花で活けても長持ちします。菊の花は皇室の菊の御紋に代表されているように、象徴的かつ馴染みのある植物ですが、菊農家さんにお話しをお聞きすると、現代人にとって菊はお葬式の花という印象が強くなっているそうです。菊にまつわる物語として、例えば菊の露を飲んで不老不死になった菊慈童など、本来の菊は延命長寿を示すおめでたい花として考えられてきました。菊に託された思いや背景の物語を知ることで、重陽の時期に行われる菊にまつわる様々な儀礼の意味に迫ることができるのです。
「菊慈童図」 海北友雪(1598-1677)筆で、画題の菊慈童は中国の仙童です。周の穆王の枕をまたいだ罪で山に流されましたが、菊の露を飲んで不老不死になったとされます。能の演目の題材としてもよく知られています。©YAMASHINA
重陽のころ、宮中で行われていた「着せ綿」の風習
重陽の頃、宮中では菊に真綿を被せて一晩置いておき、翌朝に菊から出た夜露がしみ込んだ綿で身を拭って邪気を払うという「着せ綿」と呼ばれる風習が平安時代からありました。綿という表記をみるとコットンの綿を思い浮かべられる方も多いかもしれませんが、着せ綿の綿は絹の真綿です。昔は布団や着物など身近な用品にも欠かせないもので、贈答なども盛んでしたが、現代は縁遠いものになりつつあります。
土佐光貞(1738~1806)筆の菊綿図で白い几帳の前に三色(赤・黄・白)の丸い菊綿が象徴的に置かれています。掛軸の上部には紫式部が藤原道長の妻倫子から着せ綿を頂戴した際に詠んだお礼の歌「菊の露わかゆばかりに袖ふれて 花のあるじに千代はゆづらむ」が書かれています。©YAMASHINA
山科家と深いつながりのあった重陽の節句
重陽の節句は当家と深いつながりのある宮中行事でした。菊綿は宮中の装束などを調進する内蔵寮の長官である内蔵頭(くらのかみ)を代々務める山科家から献上される慣例となっており、歴代当主の日記や諸記録からその様子を知ることができます。
『言継卿記』永禄10年(1567)9月7日条
「禁裏へ菊之綿進上、如例黄赤白三色、文如此、
かしこまりて申入候、きくの御なかあひかはらぬ世々のためしにしん上いたし候、御心え候て御ひろうにあつかり候へく候、かしくとき継なかはしとのゝ御局へ」
宮中へは重陽の日の数日前に黄、赤、白3色の菊綿を献上することになっていました。女官さんを通じて献上する際には添える文があり、相変わらず進上する旨を申し伝える言葉にも決まりがありました。公家が担う役割と宮中行事の関係性が偲ばれます。また、重陽の当日の祝宴では天皇から参会者に勅杯が下され、菊酒を飲むことも行われました。
無病息災を祈る、宮中ゆかりの茶菓子「亥子餅」
旧暦10月(新暦11月頃)になると、お茶事をされる方にとっては炉開きや茶壷の口切など、重要な時期を迎えます。この時期の宮中ゆかりの茶菓子としては無病息災を祈る縁起物の亥子餅がありますが、江戸時代の宮中で配られていたのはシンプルな丸い形の3色の餅でした。位階ごとに公卿は黒、四位は赤、五位以下は白の餅を頂く決まりで、十二支の亥の日に下されました。ひと月に2回または3回ある亥の日にはそれぞれ餅の下に敷く植物が決まっており、忍草に菊、紅葉、銀杏が添えて包まれるという季節感のある趣向がありました。
絵は玄猪餅をつく杵で海北友三(1740-1781)筆です。讃は「かみな月(神無月)しぐれのあめのあしごとに わがおもふことかなへつくつく」という天皇が杵を持って餅をつく所作をする際に三回唱える和歌で、有職故実に詳しい碩学の公家として知られた滋野井公麗(1733―1781)が書いたものです。©YAMASHINA
宮中においても喫茶文化があり、特に愛宕山に寝かせておいた茶壷を口切する行事では、お茶が臣下に分配され、食膳を伴って賑々しく行われました。格式ある伝統的な行事とは異なり、時のものを皆で集って楽しむこともひとつの大切な行事となっていました。公家によっては茶の湯に傾倒した当主がいたことが知られており、江戸後期には煎茶を通した文人趣味が流行りを見せました。会場として開放的な書院が使われたり、雅やかな道具組に特徴があるなど、公家好みのお茶の楽しみ方も存在していました。
「新茶御壺口切御献立」 宮中での茶壷口切の際には身分に応じて三汁十一菜の本膳料理や酒肴、茶菓子などが振舞われ、その材料や数量など献立が細かく記されています。当時の公家の晴れの場における食生活の一端をうかがうことができ、お茶を楽しむ文化が宮中にも根付いていたことがうかがえます。©YAMASHINA
長い歴史と共に変遷を経ながらも紡がれてきた公家文化
近年は宮中で日常的に使用されていた伊万里焼の食器類(禁裏御用品)について、公家町跡の発掘調査の進展などにより、江戸時代の宮廷社会における食文化の実態解明が期待されています。遺された史料と向き合うにつれ、現代人から4、5世代前の江戸時代のことであっても、当時の日常生活や感覚についてはまだまだ分からないことが多いことを実感します。長い歴史と共に変遷を経ながらも紡がれてきた公家の文化的なあり方を少しずつ捉えていくと、時流が激しく情報が錯綜する現代社会の中で取りうる文化的な態度をどのように考えていくのか、様々な気づきを与えてもらうように思います。
近世の御所で使用された器類は伊万里焼の磁器を基本としました。白地に呉須で染付され、菊御紋をあしらった様式が定まり、このような器類は公家町跡などから多数発掘されています。京焼などの陶器も使われましたが、当時高級品として珍重されていた磁器が圧倒的な位置を占めました。月に一回全ての食器を新しいものに入れ替えていましたので、使用後の器は臣下に下賜されました。写真は宝珠形の可愛らしくも精緻な香合です。©YAMASHINA
今秋の10月から11月にかけて第1回京都駅ビル芸術祭が行われ、会期中に旧暦9月9日を迎えました。私は重陽の節句をテーマに陶芸作家のSHOWKOさんと協業で「仙人の筥」という題の作品を出品しました。SHOWKOさんが菊の花の絵付をされ、陶板裏には「仙人の折る袖にほふ菊の露 打ちはらふにも千代をへぬべし」という着せ綿を行う際に唱えられた藤原俊成の古歌を散らし書きしました。筥の中には菊に被せる三色の真綿を象徴的に入れて展示しました。©ゲイジュツ ノ エキ
山科言親(やましなときちか)/衣紋道山科流若宗家。1995年京都市生まれ、京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程修了。代々宮中の衣装である“装束”の調進・着装を伝承している山科家(旧公家)の 30 代後嗣。 三勅祭「春日祭」「賀茂祭」「石清水祭」や『令和の御大礼』にて衣紋を務める。各種メディアへの出演や、企業や行政・文化団体への講演、展覧会企画や歴史番組の風俗考証等も行う。山科有職研究所代表理事、同志社大学宮廷文化研究センター研究員などを務め、御所文化の伝承普及活動に広く携わる。
Photos by Azusa Todoroki(bowpluskyoto)
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