2019年9月、新しい時を刻み始める「The Okura Tokyo」。新しいオークラは「オークラヘリテージウイング」と「オークラプレステージタワー」の2棟からなり、オークラの真髄や伝統は継承されつつ、さらなる進化を遂げるという。オークラの魅力を再確認し、新しいThe Okura Tokyoの姿に迫る12のストーリー。
自らの経験を生かして、日本のホテルの質の向上に尽力する
1959年(昭和34年)にホテルオークラの社長に就任した野田岩次郎は、1897年(明治30年)の生まれ。一橋大学を卒業した野田は三井物産へ入社して渡米したが、その後日本綿花(現ニチメン)に転職。生糸の商談をする際、日本人は相手にしてもらえないというハンディキャップをカバーするべく彼が思いついたのが、その土地最高のホテルを利用することだった。ホテルに泊まり、身だしなみを完璧に整え、商談を豪華なロビーで行うなかで、第一級のホテルはどうあるべきか、また客がホテルに何を望んでいるのかを体感したという野田。この頃の体験は、後にホテルオークラの方向性を決める上で大いに役に立ったようだ。
長崎県長崎市の洋品店に生まれた野田岩次郎。ホテルオークラ開業当時の社長を務めた。
野田は戦時中、強制収容所に収容され、その後は米国人の妻や子どもを置いての帰国を余儀なくされた。そんな彼が、1946年(昭和21年)、GHQからの要請で立ち上げられた持株会社整理委員会の委員長に抜擢される。ここでの仕事こそが、大倉財閥を含む財閥の解体だった。アメリカに30年近く暮らし、並外れた英語力とネゴシエーション能力を持つ野田は、GHQを立てつつ、日本企業、また日本の経済界になるべく不都合が起きないように分割を進めたようだ。
委員会解散後は豊富な人脈を生かしていくつかの会社との関係を持つようになった。そんな彼に「世界一のホテルを作る」という野望を実現するためのパートナーにならないかと声をかけたのが、大倉喜七郎だった。
完成直後のホテルオークラ東京。周辺には東京タワー以外の高層ビルの姿はない。
海外の高級ホテルを誰よりも知る2人は、西洋の物真似ではない、日本らしいホテルで世界の賓客を魅了したいという思いから、建築や意匠、料理やサービスまで熟考した。野田はホテルの運営にコーネル大学でホテル経営を学び、当時ホテルニューグランドの副支配人を務めていた蒲生恵一を、また総料理長にはアラスカ、月ヶ瀬コックドールなどで料理長を務めた小野正吉を招聘。それぞれの部門の人材選びや育成を任せつつ、自身は海外の一流ホテルの現状を経営者の視点から見るべく、約半年にわたる海外視察に出ては、手紙や電報で気づいたことを毎日のように書き送ったというから恐れ入る。
野田の参画から3年、昭和37年(1962年)に無事開業に漕ぎ着いたホテルオークラ東京。開業当初に彼がホテルの理念として掲げた言葉が「親切と和」だ。プロのホテルマンとして常に技量を磨き、お互いを敬愛し、和の心をもってチームワークを高めつつ、心からのおもてなしをすること。この言葉は今なお、ホテルオークラの真髄を表す言葉として大切にされている。1988年(昭和63年)に91歳で亡くなる前年まで、ホテルの現場に足を運んでいた野田。その精神は、The Okura Tokyoにも受け継がれ続けるに違いない。
(敬称略)
Photography by © The Okura Tokyo
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