国立新美術館で開催中の「生誕100年 森英恵 ヴァイタル・タイプ」展に行ってきました。展示品の物量の多さに圧倒されると同時に、森英恵というひとりの女性が、これだけの大宇宙を形成していたことに驚かされました。
展示の量に圧倒されながら見終えると、森英恵というデザイナーが生きた時代は、戦後の日本がどのように西洋ともう一度切り結び、歩いてきたのかという道程と重なっているのだと気づきます。洋裁ブーム、映画、雑誌文化、アメリカ進出、そしてパリへ。森英恵という存在を追いながら見えてくるのは、ひとりのデザイナーの成功譚ではなく、戦後日本ファッション史そのものなのです。
Premium Japanのコントリビューティングエディター林信行氏がこの展覧会の全体像をレポートしてくれていますので詳しくはそちらもご覧ください。
森英恵 日本ファッションを耕し世界に広めた道のり「生誕100年 森英恵 ヴァイタル・タイプ」展
戦後、女の生業の最先端が「ファッションデザイナー」だった
森英恵が新宿に「ひよしや」という名前の店を出した1951(昭和26)年。この頃、日本では洋裁ブームが起きていました。戦後、洋裁を学びたい女性は急増し、それに伴い洋裁学校も爆発的に増加します。1948(昭和23)年に689校だった学校は、1952(昭和27)年には約6,700校に達したと言われています。これは正規の学校として認可されたものだけなので、それ以外の町場の洋裁教室なども入れれば、日本女性のほとんどが洋裁になんらかの形で触れていたと言えます。この1951年の、東京都に限ってですが、実に70%以上の家庭にミシンがあったという調査結果も残っています。※
当時「婦人画報」編集部嘱託だったデザイナーの桑澤洋子は、読者の洋裁相談日に寄せられる質問のほとんどが、「どうしたらデザイナーになれるのか」「洋裁店を持つにはどうしたらいいのか」というものばかりで閉口したと語っています。女性の社会進出はまだ限定的であった戦後、デザイナー、洋裁店のマダムとは、女性にとって数少ない、自らの力量によって成立する職能でした。森英恵もまた、その欲望の場の中にいたひとりだったのだと思います。
映画衣装 × 森英恵
1951(昭和26)年に新宿へ出店したことも、ひとつの巡り合わせだったのかもしれません。銀座のような顧客層とは異なり、新宿にはより若く、流動的な人々が集まっていました。その中に映画製作関係者がいたことが、彼女を映画衣装の仕事へと導きます。この仕事は約7年続きましたが、映画クレジットに名前が残ることはほとんどなかったといいます。相当に過酷な仕事だったようで、森英恵は心身ともに疲弊したとも語っています。
もっとも、それは日本映画が巨大産業として膨張していた時代でもありました。戦後復興の機運とともに映画制作本数は増加し、1960(昭和35)年には年間547本を記録。観客動員数も1958(昭和33)年には約11億2,700万人という史上最高を記録しています。テレビが普及する以前、映画はまさに娯楽の王様でした。制作本数の多さには、当時の日本映画が2本立て興行を基本としていたことも関係しています。
それでも、この期間に起きていたことは小さくありません。映画スターという強力な媒介を通じて、森英恵という名前は作品の外側で流通し始めます。晩年まで多くの芸能人の衣装を手がけたことはよく知られていますが、その原点はここにあったのでしょう。パブリシティという点においても、これは彼女のビジネスに最初の推進力を与えた出来事だったのだと思います。
展示されていた映画『二人の世界』で浅丘ルリ子が着用したカクテルドレス。その細やかなビーズ装飾には、後の森英恵のデザインへとつながる精度がすでに現れていました。過酷な制作現場で消耗しながらも、技術と人的ネットワークは同時に蓄積されていきます。
映画衣装制作に7年間没頭したが、残っている数が少ないため希少となっている映画衣装。
浅丘ルリ子が着用したカクテルドレス。ビーズの装飾が細やかで美しい。
アメリカ進出 × 森英恵
森英恵は雑誌「装苑」に多くのエッセイを寄稿しています。当時のデザイナーは、ファッションを解説するエッセイなど、よみものを執筆することが常でした。書くこともまた、活動の一部だったのです。そして1961(昭和36)年、映画衣装制作に追われていた森英恵をパリへ送り出したのは、「装苑」編集長・今井田勲でした。
この「デザイナーをパリに送り出す」という構図は、当時の女性誌文化の特徴でもあります。1952(昭和27)年には「婦人画報」がマダム・マサコをパリ特派員として送り出しています。誌面とデザイナーが結びつき、海外のモードを媒介する。この回路の中に、森英恵も位置づけられたのです。
ディオールやピエール・カルダンのコレクションを目にしながらも、彼女の関心はパリにとどまりません。むしろ、アメリカという市場へと向かっていきます。ニューヨークで観たオペラ「マダム・バタフライ」での日本人表象の陳腐さや、日本産のブラウスがデパート地下のワンダラーショップで粗悪品として売られていたことに憤慨し、アメリカ進出を決心したというエピソードはよく知られています。
しかし、この体験で決定的だったのは、その背後にある構造への認識ではないでしょうか。パリのモードを支えていたのはアメリカの高級デパートのバイヤーたちであり、彼女はその力学を見抜いたのだと思います。つまり、アメリカという巨大な消費市場の存在に気づいたのです。
1963 (昭和38)年に発表された有吉佐和子の小説『仮縫』に、こんなセリフがあります。高級洋装店パルファンの女主人・ユキが、愛人の相島と、若かりしころ過ごしたパリを再訪したいと語る場面のセリフです。
「ああ懐かしい。またパリに行きたくなった」
中略
「行けよ。僕はすすめるな。そろそろ行く時期だよ。パリも大分変ったらしい」
「マーケットがアメリカになってしまったからでしょう」
有吉佐和子が小説『仮縫』でこのセリフを書いていたこと自体、当時すでにファッションの市場がアメリカへ移行していたという感覚が共有されていたことを示しています。
いまでこそパリ進出はデザイナーの成功譚として語られますが、当時のファッションビジネスを考えれば、まずアメリカの高級デパートに受け入れられることは極めて大きな意味を持っていました。森英恵は、市場を押さえたうえでパリへ向かったとも言えるのかもしれません。
1965(昭和40)年に本格的にアメリカに進出した森英恵ですが、この1965年というのも、なかなか興味深いものです。私はアメリカのTVドラマ「マッドメン」を思い出しました。1965年を舞台にした「マッドメン」シーズン4の中に「菊と刀」というエピソードがあります。主人公ドンの働くマンハッタンの広告代理店が、ホンダのプレゼンに参加するというエピソード回です。
この広告代理店の社長、バート・クーパーは日本美術や禅をこよなく愛する文化人。屏風や浮世絵を部屋に飾り、じゅうたん敷の社長室は土足禁止という徹底ぶり。この描写は当時の空気を的確にすくい上げています。戦後アメリカに渡り禅を紹介した鈴木大拙や、イサム・ノグチの活動を通じて、日本的な美意識が静かに浸透し、かつバイクやクルマなど工業製品もまた、アメリカの消費社会へと入っていきました。
森英恵がアメリカに進出した1965年は、そうした受容の層が可視化され始める地点にあたります。彼女の成功は、この時代の変化と位相を同じくしていたのだと思います。
同時に、パリを目指した日本人デザイナーたちも頭角を現し始めます。1970(昭和45)年、 高田賢三はパリ2区にブティック「JANGLE JAP」を開き、「ELLE」の表紙を飾りました。森英恵が日本的な意匠をシルクでエレガンスとして提示したのに対し、高田はカラフルなコットンでロマンティックなエスニシティを打ち出します。
表現のかたちは異なっていても、そこに通底しているのは、オリエンタリズムを帯びた美というのが、時代の気分でした。
シルクをたっぷりと使ったドレスは、シルクの流れるような落ち感とプリントの美しさが際立つ。
夫・森賢×森英恵
森英恵の飛躍には、複数の協働が連なっています。松井忠郎によるテキスタイル、高級デパート ニーマン・マーカスのオーナー、スタンレー・マーカス。それぞれの出会いが、彼女の表現と市場を接続していきました。このあたりの展示も丁寧で、見応えがありました。
そしてもうひとつ、夫・森賢の存在があります。この見事な道筋を作っていったのは、森賢というキーパーソンがいたからこそだったのではないでしょうか。森賢は、陸軍主計将校だったと言われていますが、この経歴は、単なる履歴にとどまりません。戦後日本を設計した人々の中でも、たとえば海軍の主計将校だった中曾根康弘のように、経済や社会の流れを俯瞰する視点を備えていた可能性があります。森賢は、今回の展示では詳述されていませんが、森英恵の軌跡を読み解くうえで、重要な変数のひとつです。調べてみたい、興味深い人物です。
と、とりとめもなく書いてしまいましたが、それでも書きたいと思わせるほど、この展覧会は圧倒的です。近年、有名ブランドではアーキビスト(記録保管人)を設け、ブランドのアーカイブに力を入れていますが、この展示はひとりのデザイナーの軌跡をここまで編成したという点で、際立っています。
個人的には、1960年~70年代の作品が力強く、森英恵がハナエ・モリになっていく過程が鮮明で素晴らしかったです。また、ライセンスビジネス、丹下健三設計のハナエ・モリビルの誕生、「流行通信」「WWD」などのメディア運営なども展示され、もはやこれは森英恵という大コンステレーションを見る展覧会と言って差し支えないと思います。
森英恵は、出会いと時代を掛け合わせることで、その都度自らを押し上げていった存在だったのだと思います。ファッション史、戦後史を考える上でもう一度、何度でも向き合いたくなる展覧会です。必見です。
※井上雅人『洋裁文化と日本のファッション』青弓社、2017
舞台衣装も手掛けた。
ハナエ・モリビルの地下にあったアンティーク街のポスター。カフェ猫に行くのが好きでした。
◆生誕100年 森英恵 ヴァイタル・タイプ
会期:2026年4月15日(水) ~ 2026年7月 6日(月)
会場:国立新美術館 企画展示室1E
東京都港区六本木7-22-2
開館時間:10:00~18:00
毎週金・土曜日は20:00まで
※入場は閉館の30分前まで
休館日:毎週火曜日
*ただし5月5日(火・祝)は開館
主催:国立新美術館、テレビ朝日、東京新聞
中嶋千祥 Chisa Nakajima
編集NことPremium Japanの編集長ダイリ。1950~60年代の日本映画鑑賞とワインを飲むのが大好き。戦後の女性誌収集が趣味というちょいオタク。
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